憂 - う -(改訂予定) 【短編小説】| 小説ページへ戻る |


憂 - う -

   1

 ここはどこだろう。
 私が目を覚ますと──いや、本当に目が覚めていたのかはそのときはわからなかった──真っ暗な場所にいた。
 立っているのか座っているのかもわからない。地に足が着いた心地はしなかった。身体ごとどこかに落下しているという、風を受けた感覚もない。風は吹いていない。
 どこが上なのか、下なのか……私は今どっちを向いているのか、わからない。辺りを探ろうと手を伸ばそうとしたが、手がない。
 身体が、ないのだ。筋肉を動かそうとしても、手ごたえがない。今、私の目の前には闇しか映っていないが、果たしてそれは、ちゃんと目に見えている映像なのかも定かではなかった。顔があるかどうかもわからなかったからだ。
 ただ……心だけがここにあるような……置き去りにされて迷子になった子供のようだった。
 本当は寂しいはずなのに、なぜだろう、心地良ささえ感じるのは──


「……ちゃん……うちゃん……おじょうちゃん!」
「え?」
 いつの間にか私は、小さな浜辺で寝ていた。
「こんなところで寝ていたら、風邪ひくぞ?」
「ええと……」
 どうやら私は、この浜辺で眠っていたらしい。辺りを見回すと、すぐ先に海が見える。空は青くすみ渡っていて、太陽の日差しがまぶしい。手も足も、ちゃんとある。顔も触れる。砂が少し顔についた。
 そして目の前には、上半身が裸の、麦わら帽子をかぶった初老の男がいた。
「夢……?」
「あんた、中学生か?セーラー服なんか着て、浜で寝ていて大丈夫か?」
「……あれ?」
 よく見ると私の服装は、いつも学校で着ている制服だった。太陽に照らされて暖かくなっているが、少し湿っている。
「この島には中学校なんてないんだが……どこから来たんだい?それとも、この島の人かい?」
「えーと……」
 そういえば私はどこから来たのだろう。どうしてここで寝ていたのだろうか、まったく身に覚えがなかった。太陽は真上にあるが、今は何月何日の何時なのだろう。記憶がない。
「おじさんは?」
「俺はこの島の漁師だ。この浜辺は穴場なんだ。他の漁師は、めったに来ねえ」
 自慢げに笑って、手にしていた竿を振った。見ると、釣りの道具らしきものを持っていた。
「へえ……」
「おじょうちゃんは?」
「私は……」
 私はとりあえず、ここがどこかわからないこと、ここに来る前の記憶がないことなどを話した。
「あの、ここは一体、どこなんですか?」
「この島は、泉南島っつー小さい離島さ」
「せんなんじま……?」
「そう、千葉県を少し南東に行ったところにあってな。少しって言っても、結構遠くてここからじゃ本州は見えねえけどな」
 私はもう一度海を見渡した。お世辞でもきれいとは言えない、緑色に濁った海だった。水平線の向こうには黒い雲が漂っている。雨が降っているようだった。
「俺が釣りに出るときはいつも雨が降ってるんだ。俺はこの島から出たことないからな、向こうに何があるのかはか知らねえ」
「はあ……」
 私は、自分が今どういう状況に置かれてるのか知りたかった。いくら思い出そうとしても、それ以前の記憶がまったくないのだ。おじさんは、記憶喪失かなと言っていた。自然に治るものらしい。
 とりあえずそのおじさんに、島の中心まで案内してもらうことにした。それほど大きな島ではないらしいが、島の中には村が一つあるという。電気も通っていて、コンビニや本屋もあるそうだ。
 私は立とうとして、左足だけ靴を履いていないことに気づいた。ならなぜ、右足だけ靴を履いているのだろうか。
 浜辺を見回しても、靴らしきものは落ちてなかった。海が濁っているわりに浜辺はきれいで、ひとつもゴミがなく、白く光っていた。
 ソックスは両足とも履いていたので、私はとくに気にせずおじさんの後に着いて行った。


   2

 浜辺から少し歩き森の中を抜けていくと、車道に出くわした。
 塗装されたばかりなのか、タイヤの跡がひとつも見当たらない。白いガードレールも、新品同様に思えた。
「この道路を下りていくんだ」
 歩道はないが、この道はあまり車が通らないらしく、昼間は普通に歩いても問題ないそうだ。
 しばらく歩くと、信号のある交差点が見えた。標識もま新しく、白い文字で行先案内が書かれていた。この先4キロメートル先にぶどう園、と書かれている。少なくともそのぐらいの大きさはある島だということだ。
 私たちはそのぶどう園とは逆の、泉南村というところへ向かった。400メートル先にあるらしく、すぐに村が見えた。
 ほとんど木造の家ばかりだったが、古いという感じはなかった。大富豪が持つ別荘、と言った感じだろうか。二階建ての普通の民家が建ち並ぶが、どの家も新築のように思えた。この島の人たちは清潔なんですね、と話しかけたが、おじさんは何も答えなかった。
 村の中は結構にぎわっており、野菜を売っている若い男の人が、買わないかいと声をかけられた。おじさんがフォローしてくれたが、私一人じゃあ彼らの押しに負けるところだったろう。
 いくつかコンクリート建ての家もあった。洗濯物を干している女性や、窓からのぞいている犬もいた。どこにでもある、よく見る光景だ。『村』と聞いて古い田舎のような街並みを想像していたが、ここはそうではなかった。
 村の中心らしい場所に着くと、大きなホールのような建物があった。この島を治める自治会が建てたらしく、重役を務める人がここで仕事をしているらしい。島の中には役所はもちろん、交番や郵便局もないらしいので、それらの仕事はすべて自治会が行っているんだとか。私はおじさんに案内され、その建物に入った。玄関には、泉南会、と書いてあった。
「何か困ったことがあったら、みんなここを訪れるんだ」
 私はその建物のことについて聞いたあと、泉南会のカウンセラーに今の状況を話した。


 記憶喪失、ということで片づけられ、二日後に泉南島に来る連絡船で病院に行きなさいと言われた。この島には病院もないらしい。簡単な傷や、骨が折れたぐらいの怪我なら応急処置ならできるそうだ。一応、医者もいるらしい。ただ、そういう施設がないということなのだ。
「ところで、君の名前は?」
 カウンセラーに名前を聞かれ、そういえば私の名前は何だっけ、とふいに思った。
「えーと……」
 戸惑っている私を見て、カウンセラーは質問を変えた。
「何か、身分を証明するものは持っていないかい?」
 私は、はっと思いだし、セーラー服の胸ポケットを探った。思ったとおり、学生証が見つかった。
 中身を見る前にカウンセラーに差し出すと、その人はゆっくりと、書いてあることを読んでいった。
「第三……第三東中学校、というところから来たのかい?」
 おそらく私が通っているだろう中学校の名前を出されても、私は思い出せなかった。
「君は、第三東中学校に通う二年生の1組、万波(まんなみ)渚(なぎさ)かね?」
「万波……渚……」
 学生証の中身を見せられると、そこには女の子の顔写真と、『万波渚』と言われる人のプロフィールが書かれていた。所属している中学校、第三東の名前と、姓名、そして生年月日だ。
「この顔写真と君の顔は同じだ。そしてその学生証を君は持っていた。ということは君は、この女の子なんだ。君の名前は、万波、渚だ」
「私の名前……」
 その名前を言われてもピンと来ない私は、ますます困惑するばかりだった。


   3

「二日後に来る連絡船を待つまで、この島に泊まってもらうことになるだろう。明日までに部屋を用意しておくから、今日はそのおじさんの家に泊まってくれないかい」
 カウンセラーにそう言われ、私はおじさんの家に泊まることになった。おじさんは、孫娘が帰ってきたようだと言っていた。
 おじさんの孫娘は、先に『いって』しまったらしい。
 どこに?とは聞けなかった。聞かなくても、何があったかはだいたいわかる。
 おじさんの家は、島の中心部から少し離れたところにある、木造の一階建てだった。みんな先に『いって』しまったらしく、一人暮らしをしていた。
朝は日が出る前に起きて、仕事である漁業を行っている。日が明けたら、毎日欠かさず散歩をすることが健康の秘訣だと言う。ご飯は、島で採れる山菜や村で買う米を食べているそうだ。
 昼はテレビを見たり、運動をしたり、村の友人と遊んだりしているそうだ。遊ぶ、と言っても立ち話をしたりゲートボールをしたりするらしい。夕方は仕事と違って、趣味で魚釣りをするそうだ。それを夕食にしている。そして夕食を食べたら、風呂に入って寝るんだとか。
 おじさんはいろんなことを話してくれるが、私はこの島に来る前の記憶がまったくない。自分のことを何も話せない私が、悲しかった。おじさんは私のことを察してくれて、何も聞かなかった。
「今日はもう疲れたろう、ゆっくり休みなさい。家の中にあるものは、自由に使っていいからね」
 そう言っておじさんは、魚釣りに出かけた。私はとりあえず、テレビを見ることにした。
「……あれ?」
 不思議に思ってテレビのつまみを回したが、やはりおかしい。
 おじさんの家にあるテレビは、ザーと音を立てたまま、何も映らないのだ。壊れたのだろうか。
 仕方なく私は、たまたま目に入った本を読むことにした。机の上にあった短編小説。どう発音すればいいかわからない、難しい英語が表題に書かれていた。そこで私は気づいた。「英語」というものがあるということは「わかる」のだ。「本」というものが何かというのも「わかる」。
 私の身辺に関する記憶はなったけれど、モノの意味はちゃんと頭の中にあるらしかった。知能が低下したわけではなく、記憶がなくなっただけだ、というのがわかった。
 もちろん、難しい英語はどう思い出そうとしてもわからなかった。きっと学校では習わなかった単語なのだろう。
 しばらく読んでいると、だんだん眠気が襲ってきた。私はその眠気に耐えられず、本を手にしたまま眠ってしまった。


 暗い……とても暗いその場所で、私は目を覚ました。いや、正確に言うと、私はきっと、今も眠ったままだ。
 これが夢だということが、今回はすぐにわかった。
「変に現実味のある夢だなあ……」
 誰に言うでもなく、私はつぶやいた。
 もちろん、どこを見ても暗闇に染まるその世界は、どう考えても現実味があるとは思えない。ただ、夢の中でも意識がはっきりしているのだ。これが夢だということがわかるのが、その証拠だった。
 夢の中の映像は浜辺で見たものと同じで、とても奇妙なものだった。
 今回は、自分の身体に実体があった。手に力を入れると、手が動く。顔を触ることができる。ただ、周りが暗すぎて、自分の身体がどこにあるのかわからない。手を動かしている感覚や、顔を触っている感覚があるのは、わかる。その手の色や輪郭がどのような形状になっているのか、わからなかった。
 やはり私が今見ている映像は、真っ暗だった。
 足を動かそうとしてみる。足はやはり地についていたわけではなく、どう伸ばしても、壁らしきものには当たらない。私はどこかに浮いている夢を見ているのだろうか。ではどこに?
 私は辺りを見回した。何度も手で探った。足を動かしても、どこかに移動している感覚はなかった。
 どうせ夢ならどうにでもなれと、私は動かすのを止めた。どこかに浮いているというのなら、身体を楽にしてただ浮いているだけでいい。
 そして私は……しばらくして、あるものを見つけた。夢に変化が訪れたのだ。
 上を見ると──と言っても、本当に上を向いているのかわからないが、とにかく顔を上にかたむけたような感じで──光が見えたのだ。
 青い、きれいな光だった。とても小さく、よわよわしい光。けれどしっかりとした青色で、暗闇の中、一点だけが光り続いていた。
 私はその場所に行こうとした。まるでその光が、私を導いているかのようだったからだ。必死になって、手を伸ばした。
 すると、手の輪郭がだんだん見え、光に照らされ青く染まっていく。そこに手があるのがちゃんとわかる。
 だが……私はまた、不思議なものを見つけた。
 手に、小さな泡がついているのだ。
 まるでシャボン玉を手に乗せたような、はっきりとした気泡だ。
 その泡を、私はもう一つの手で触った。するとその泡は手から離れ、青い光に導かれるように昇っていった。
「なんだろう……」
 私はまた、つぶやいた。すると今度は、自分の口から、とても大きな泡が、音とともに昇っていった。青い光のさすほうへ。
 私は驚いて、光に照らされた自分の身体を見た。
 そして──


 4

 目が覚めると、私は天井を向いていた。木でできた天井だ。
 起き上がって見ると、私は布団をかぶっていた。そこでやっと、私はおじさんの家に泊まっていたのだと思い出した。本は枕もとに置かれていた。きっとおじさんが気をきかせて、私を布団に寝かせてくれたのだろう。
 窓から光がさしている。鳥のさえずりも聞こえる。朝になるまでずっと寝ていたのだろうかと思うと、なんだか恥ずかしかった。
 夢の中で、ひどく驚いていたのを覚えている。しかし何に驚いたのかは覚えていなかった。まあ夢だからいいかと、自分自身に納得させていた。
 おじさんを探したが、家の中にはいなかった。朝の漁に出掛けているのだろうか。私はせめて、お世話になったおじさんに朝ごはんをごちそうしてあげようと思った。
 他人の家の中を無断で探し回るのはよくないが、何かないかと思い台所を調べた。米が少しと、冷蔵庫の中にはほうれん草が少しあった。肉類が一つもないのは、きっと魚で事足りるからだろう。私は米を洗い、台所にあった炊飯器で米を炊いた。その間、また本を読んだ。
 しばらくして扉の開く音が聞こえた。玄関に向かうと、魚釣りの格好をしたおじさんがいた。
「おかえりなさい」
「ただいま、もう起きてたのかい」
「おかげでよく眠れましたよ」
 私はおじさんの荷物を少し持ち、運ぶのを手伝った。おじさんがうれしそうに、今日も大漁だと話した。私もつられてうれしくなった。
 ご飯が炊けたアラーム音が鳴り、私はご飯を入れてあげた。おじさんが炊くときと水加減が違うらしいが、この水加減のほうがおいしいと言ってくれた。おじさんが釣ってきた魚とほうれん草も一緒に食べ、おじさんと少しだけ話もした。会ってから一日しか経ってないのに、もう打ち解けた感じがした。
 私はおじさんに本のことを話すと、泉南会の建物にもっとたくさん置いていることを聞いた。
「向こうには面白い本がたくさんあるんだ。この本も泉南会から借りてきたものでね。こんな何もない島に三日間いるのも暇だろうし、向こうで本を読みながら暇をつぶすといいよ」
 私は恋愛ものが好きで、そういう本もあるかどうか聞いたら、少ないけれど置いてあるそうだった。
 わけのわからない状況でこんな島に取り残され、のんきに本など読んでる場合ではないけれど……私だけでは何もできないし、確かに暇といえば暇だった。私はしばらくおじさんの家で話を聞いて、午後から泉南会へ向かうことになった。


「昨晩はよく眠れたかい?」
 私が泉南会へ着くと、昨日と同じカウンセラーの人が出迎えてくれた。
「はい、よく眠れましたよ」
「それはよかった」
 私はその人と中へ入った。おじさんは魚釣りに出かけていて、一緒に着いては来なかった。
 最初はそのカウンセラーと二人きりになり、おじさんのことやこの島のことなどを話したり聞いたりした。夢のことはさすがに話す気にはならなかった。記憶が戻っていない上にそんなことを話したら、頭のおかしい子だと思われてしまうかもしれない。
「まだ記憶は戻らないか……少しも思い出せないのかい?ここに来る直前の記憶じゃなくても、昔の思い出とか」
「……わかりません」
 うっとうしがられていたらどうしようと思い、私の顔は少しずつ暗くなっていった。
 それを察してか、カウンセラーは話題を変えた。
「万波さんは本が好きと言ってたよね?」
「はい」
「ここ、図書室もあるんだ。一緒に行かないかい?」
「本当ですか?」
 私はすっかりうれしくなって、カウンセラーのあとについて行った。
 中を歩いていると、さすが村のほとんどをまとめているだけあってすごく広く感じた。外から見たときよりも広いんじゃないかと思うほどだ。消防車はないけれど消防施設はあると聞いて、私は驚いた。
「村が一つしかない、小さな島だからね。何でもあるというわけじゃないけれど、島の中で起こった最低限のことはここで対処できるのさ。遊具施設や公共施設もここしかないから、みんなここを頼りにしてるし、私たちも誇りを持っているよ」
 その話を聞いた私は感心するばかりだった。この建物が壊れたらどうするんだろう、なんてことはまったく考えなかった。
「ここだよ」
 図書、と書かれてあるドアの前に立ち止まり、カウンセラーは手を招いた。中を開けるなり私は絶句した。5メートル以上はあるかと思われるぐらい高い天井の、ぎりぎりまで本が大量に積み上げられていたからだ。
「こんなにも本が……」
「島の人が全員で読んでも、数週間はかかるぐらいの量さ」
 私は図書室の中を歩きまわりながら、興味のある本を手にとっては物珍しそうに眺めた。漫画もあれば、さまざまな小説や雑誌、それに歴史書や文学史など、他にも難しい本がたくさんあった。
 島の大きさを考えれば、こんなにも本はいらないだろうというぐらい多かった。この島の住人は、よほど本が好きなのだろうか。
「本土からこの島に来る人たちが、寄付してくれるんだ。そしたらいつの間にか、こんな量になってしまってね」
 確かにこれだけの量があれば、この島にいても飽きることはないかもしれない。というか、それだけこの島に来る人が多いということなのだろうか。聞いたところ、ぶどう園ぐらいしかないと思ったのだけれど……
「この部屋から持ち出さなければ、どの本も自由に読んでくれてかまわない。あ、あと夕飯は、この廊下の突き当たりを右に行くと食堂があるから、七時ごろにおいでよ。君の寝室は、そこの二階に上がる階段をすぐ左に行ったところに用意しておいたから」
「あ、ありがとうございます」
 そう言って、カウンセラーの人は部屋を出た。
 私は図書室の中を探検した。探検、と言っても、実は思ったほど広くないことがわかった。縦に長いだけで、横──つまり床の広さ──はそんなに広くなかった。建物がホール状だからだろうか。
 私は文庫と書いてある棚から、手頃な厚さの本を手に取った。すぐ近くに置いてあったイスに座り、本を読み始める。
 自分が今どんな状況に置かれているのか、そんなことなどまったく考えずに、ただずっと本を読んでいた。


   5

 私は甲板の上にいた。とても大きなフェリーボートで、外国の映画で見るような豪華客船に乗った気分だった。
 これも夢だということがわかった。しかし今回の夢は、今まで見た夢とは全然違っていた。私は地に足が着いていて、空は青くすみ渡っている。強い潮風を感じ、髪がなびく。潮のにおいが鼻を伝う。
 私は客室のほうに身体を向け、誰かと話している。そう、いつもと違うのは、風景だけではない。夢の中の自分が、制御できない。いつもなら、手を伸ばそうと思えば手を伸ばせたし、話そうと思えば話すことができた。
 まるで、すでに起こったことを再現させているかのような……過去の出来事が夢に出てきたようだった。
 目の前には、私が着ているのとまったく同じセーラー服を着た女の子がいた。年はきっと、私と同じぐらい。同じ学校の子……?
 客室のドアに手をかけているその女の子の顔は、とてもおだやかではなかった。切羽つまっているような、緊迫な表情を浮かべていた。その視線の先は、私の目をはっきりと見ていた。
 その女の子は私にこう言うのだった。
「違う、誤解よ!信じて!」
 何が、違うのか、何が、誤解なのか。私にはまったくわからない。けれどそこに立っている私は、困惑する私を無視して話し出した。
「何が違うのよ!彼とあんなに仲良くしゃべったりして……私からあの人を、取ろうとしたんでしょ!」
 私は一体何を言っているのだろう。事態をまったく飲み込めない。それでも展開は止まらなかった。
「あれはカズ君からしゃべりかけてきたのよ、信じて渚!」
「うるさい!」
 私はその女の子の言葉を振り払って、甲板にかけられた柵を乗り越えた。
「なぎさぁ!!」
 夢の中の私が下を向くと、広大な青い海が広がっていた。お世辞でもきれいとは言えない、緑色に濁った海だった。
 ここで終わるのか……夢の中の私は、とても悲しそうで、あきらめていて、そしてすべてを投げ出していた。
「どうせ誰も振り向いてくれないわ……私なんて、生きてる意味なんか、ない」
 夢の中の私は、自殺らしく靴をそろえてから『いって』しまおうと、片方の靴を脱ぎ始めた。
 そして、もう片方の靴を脱ぎかけたところで……バランスを崩し、海へ転落した。
「い……いやああああああああああああああああああああ!!!」
 客室から走って出てきたその女の子は、甲板から私を見降ろしていた。涙を流している。何度も何度も、私の名前を叫んでいる。手を伸ばし、柵を越えようとしたところを、誰かに止められていた。それが誰かは、最後まで見ることができなかった。
 女の子の顔がとても小さくなっていく。私たちを乗せていたフェリーボートが、どんどん大きくなっていくように感じた。
 時間に直してみると、ほんの一、二秒だったのかもしれない。それ以下だったかもしれない。ただそのときの私は、その時間がとても長く感じられた。
そして思った。やっとこの夢から覚めることができる。この悪夢から……『限りある永遠』から。
 最後に私は、涙を流しながら少しだけ笑った。ほほ笑む、と表現するべきだろうか。安堵と幸福に満ちた夢の中の私の、ほんの小さな脳細胞が、生きることをやめた。
 死こそ至上の快楽。
 生きることをやめた脳細胞は、快楽であふれたさまざまな分泌液を出し、私にもう一つの夢を見せた。
 見知らぬ島で、私は釣り竿を持ったおじさんと出会い、ほんの一瞬だけ何もかもを忘れ生きていく夢を。


 夢の中の私の身体は、フェリーボートのスクリューに巻き込まれ、ヒトの形でなくなった。そして、深い深い、とても暗い海の底へ落ちていった。
 私の身体には、小さな気泡がたくさんついていた。それを振り払おうとすると、気泡は上へ上へとのぼっていく。青い太陽のほうへ、ただまっすぐと。
 私が生きてきた意味は、一体なんだろう……最後にそうつぶやこうとして、しかし、かつて口と呼ばれていた大きな穴からは、気泡だけがのぼっていくだけだった。
 私の身体は一滴の憂(うれ)いとなり、この広い海の中へ散っていった。
 そこで私の夢は終わった。


 昨晩、泉南会の図書室で本を読み、そして夕飯を食べ風呂に入ったあとすぐに寝た。
 そして、三日目の朝が来た。予定では今日、連絡船が来るはずだ。
 その連絡船がどこへ向かうのか、今の私には簡単に推理できた。
 ──ここにいる私は、私じゃない。
 私はあのとき、すでに死んでいたのだ。


   6

 過去の記憶を夢でたどっていくうち、私はすべてを思い出した。
 私の名前は、万波渚。第三東中学の二年生で、ごく平凡な女子学生だった。普通と違うところといえば、私には親というものがいない。父と母はすでに他界しており、私は漁業をしている祖父の家に住んでいた。しかし私が中学校に入学した次の日、私の祖父も他界した。業者は、祖父の実家である泉南島という離島に墓を建てるようすすめた。すべての処理は私のお金でなく、死んでいった人たちが残してくれた保険金でまかなえた。
 私は小学校の高学年ぐらいから、好きな男の子がいた。その男の子のことを友人たちはカズ君と呼んでいた。私もがんばって、カズ君と呼ぶことにした。
 他の人たちは普通にカズ君と呼んでいるのに、私だけが顔を真っ赤にしていた。彼が優しく返事をしてくれると、私は顔に火がついたような思いだった。
 もちろん友人からは、一目で私の好きな人がバレた。しかし友人は冷やかすこともせず、私のことを応援してくれた。一部の女子や男子からは、親がいないとからかわれたこともある。でも、少なくともカズ君は私をからかったりはしなかった。
 中学校に入っても、私とカズ君は同じ学校だった。私はうれしかった。同じ学校というだけでもうれしいが、同じ学校ということはつまり、家が近いということだった。
 なんとか私のことをカズ君にアピールできないかと友人に相談すると、友人は快く協力してくれた。その女の子の名前は、美羽(みう)という。夢の中の私と話していた女の子だ。
 最初の一年は、とにかくいっぱいしゃべった。どこかに遊びに行ったりはできなかったけど、そのかわり学校でいっぱいしゃべった。帰り道が途中まで同じだということを知ってからは、もっと親しくなったと思っている。
 けれど、肝心なことはいつも聞けないままだった。カズ君には彼女がいるのか、私は知らずにいた。美羽に相談して、カズ君に聞いてもらっていた。彼女がいないということを知った私はほっとしたが、自分自身、前進したという気はしなかった。
 美羽を通して、カズ君のいろんな情報を聞き出すことができた。私はそれをネタに、カズ君と世間話をした。カズ君の見せる笑顔や、かわいらしいしぐさに私はますます顔が赤くなっていく。それをつけこんでカズ君がまた笑う。そんなやりとりをずっとしていた。
 二年の夏、修学旅行をきっかけに、私は大きく前へ出ようと決心した。それまでにかなりのイジメや冷やかしをもらったけれど、励ましのエールもたくさんもらった。この修学旅行で、告白しよう。私は、もしフられてしまったときの、そのあとのことも考えずにそう意気込んだ。
 当日の朝、中学校を出て私たちは駅に向かった。近くの駅から数十分ほどで港に着いた。そして私たちは、鉄道などを運ぶ大きなフェリーボートに乗って、旅行先の観光名所に行く……はずだった。
 行動班の班分けの結果、私と美羽とカズ君は三人とも離れ離れになった。私はカズ君のことについて相談しようと、美羽のいる班の客室を訪れた。
 私はドアを開けたまま凍りついた。その客室の中には、美羽とカズ君の二人しかいなかった。他にも班員はいるだろうし、だいいち美羽とカズ君とは部屋が違う。ベッドに座って楽しそうにしゃべっているその姿を見て、私は逃げ出した。
 私は美羽に頼りすぎていたのだろうか、それとも自分にうぬぼれていたのだろうか。どちらが正解なのかも、どちらとも正解なのかもわからない。ただ後悔が頭の中をよぎった。
 実際のところ私より、美羽のほうがカズ君としゃべっている回数は多い。美羽のほうが、二人きりになる時間は多かった。私よりも親密になっている可能性は、大いにあったのだ。
 必要な情報だけ聞き出せた私は、それに満足していた。まさか二人がすでにできていたとは、思ってもみなかった。可能性すら考えなかった。心から信じていたからだ。
 私が逃げ出したことに気づいた美羽は、当然走って私を追って……追ってはこなかった。
 失意のうちに自殺を考えた私は、今まさに甲板から飛び降りようとしていた。けれど美羽は、客室のドアに立ったままで、私のほうには寄ってこなかった。それは、わけのわからない事態にうろたえているから、かもしれない。しかしそれは、こっちだって同じだった。よくみれば、美羽の足はすくんでいたのかもしれない。しかしあのときの私には、そんなところにまで気を配る余裕がなかった。
 そして私は、海に身を寄せた──


 ──どっちが夢?
 今までの出来事はすべて夢で、これから起こることが現実?
 それとも私は、まだ夢の中にいるのだろうか?
 生きることが悪夢なら、ここは吉夢なのだろうか──


 泉南会の中には、誰もいなかった。いや、この表現は正確ではない。
 泉南会という建物自体が、どこにもなかった。
 三日目の朝を迎えた私は、大きな石板の上で眠っていた。周囲は霧に包まれており、木くずやがれきが散乱している。そのうちの一つを手にとると、「泉」と書かれた木の板が見つかった。その横にも文字が書いてあるらしかったが、途中で折れていて読めなかった。
 私は、今のこの状況を、不思議とは思わなかった。これがこの島の、本来あるべき姿だった。私はずっと夢を見ていたのだ。どちらが夢だったのか、はっきりとしなかった。今も夢を見ているのか、もう夢から覚めているのか……証明してくれる人は、誰もいない。
 失恋した私が、何のために夢を見ていたのかはわからない。もしかすると、この夢で見てきたことは、まったく無意味なことだったのかもしれない。
 それでも私は、夢から覚めなければいけない。
 10メートル先も見えない霧の中で、私は道なき道を歩いた。目的地や目印などはなく、ただ足が動く方向に歩いていった。
 どれぐらい歩いただろう。ほんの少し、波が打ち寄せる音が聞こえる。渚の音だ。
 遠くで、汽笛の音が聞こえた。霧がだんだん晴れていく。
 気がつくと、私の周りだけ霧が晴れていた。丸い円を描いて、周りで霧が渦巻いている。
 私は立ち止った。霧の先から、人影が見えてきた。
 その人影は霧の中から出てきて、円の中に入ってきた。泉南会の、カウンセラーの人だった。
「昨晩はよく眠れたかい?」
 いつもと変わらない、優しい表情で私にそう聞いた。


   7

「人は必ず、罪を犯す。人が生きている限り、必ず誰かが不幸になる」
 カウンセラーは立ち止まって、誰に話しかけるでもなく話し始めた。
「そこには必ず、誰かの悲しみがあったり、憎しみがあったり、怒りがあったりするだろう。それがある限界点を超えたとき、人は死を選ぶ」
「……」
「感情に押し負けて自分から死ぬか、感情を押し殺して相手を殺すか。たいてい人は、自分自身の限界点を超えたりはしない。それは、まれだ。けれどやっぱり、超えてしまう人はいる」
「……」
「もし人を殺してしまったのなら、後悔でもするのだろうか。殺したいから殺したのに、なぜ後悔する必要があるのかな。そう思わない?」
 カウンセラーは初めて、私の目を見て問いかけた。しかし私は、その問いには答えなかった。
 相手も答えを求めていないのか、私に構わず話を続けた。
「もし自殺してしまったのなら……後悔する時間も、これでよかったんだと納得する時間もない。人を殺せば、法律によって裁かれたり、あるいは罪悪感にとらわれどこかの国へ逃亡したりするだろう。監獄の中で悔い改める者もいれば、これでよかったんだと思う者もいる。私は、そういう時間が人には必要だと思うんだ。
 けれど、自殺してしまった人は『自分を殺す』という人殺しの罪を償う時間がないんだよ。人の生命を終わらせてしまうことが法律によって罰せられるなら、自殺していった人たちは、言わば罪人なんだと私は思う」
「……」
「この島は、そんな人たちが悔い改めたり、やっぱりこれでよかったんだと納得できる時間を与えるために存在する。渚ちゃんは、自分の死を思い出して、どう思った?」
 カウンセラーの顔は、私の名前を聞いたときのような、優しい笑顔だった。
「……私は……」
 ほんの少しの沈黙の間、私はつぶやくように答えた。
「私は……友人が憎いと思いました」
 カウンセラーの眉が、ぴくっと動いた。
「本当にそれだけかい?」
「はい……」
 カウンセラーはあごに手を当て、何かを考えるようなしぐさをした。
「ふむ……なら最後にもう一つ、君に夢を見せてあげよう」
 カウンセラーがパチンと指を鳴らすと、私の周りの霧は一気に晴れた。
 風が巻き上がって、思わず目を閉じた。私の身体が地から離れ、空に舞い上がった。


 私が目を開けると、私は宙に浮いたままだった……いや、浮いているのではない、何かにぶらさがっていた。
 右腕を何かにひっかけたまま、私は宙にぶらさがっている。目の前には大きなフェリーボートの船体があった。下を見ると、海が広がっている。私はどういうことかわからず、困惑した。
「渚!」
 頭上から私を呼ぶ声が聞こえた。見上げるとそこには──私の右腕をつかんだ美羽がいた。
「どうして……」
 どうして私はここにいるのだ。私はあのとき、確かに死んだ。今までの出来事が、走馬灯のように流れていただけだったのだろうか。
 私のつぶやきが美羽には別の意味に聞こえたらしく、美羽は大声を上げて懸命に私の手を引っ張った。
「あなたを助けたいからに……決まってるじゃない!」
 私はどうしても美羽の顔を見ることができなかった。このまま早く落ちてしまえばいいのに……
 私の右腕をつかむ美羽の力が、だんだんと弱くなっていくのがわかった。
「もう、だめ……」
 私はまた、死を体験するのだろうか。ここから落ちて、美羽の泣き叫ぶ顔を想像する。いつかの夢で見た光景と同じことが繰り返されようとしている。
 けれど今回、私は死ぬことができなかった。
「……カズ君!」
 私が上を見上げると、カズ君が美羽の身体を支えていた。私は無性に腹が立ち、美羽の手を振りほどこうとした。しかしカズ君はそのまま、私の腕をつかみ引き上げようとした。
「死なせたりなんか、しない……!」
 カズ君はそう言って、ありったけの力を振りしぼった。私はされるがままに、甲板に転げ落ちた。そのはずみで、靴が片方海に落ちた。
 その場の誰もが荒い息を吐き、下を向き、何もしゃべらずにいた。潮風が髪をなびかせ、目に入ろうとした。私はそれをはらうと、目から涙が出た。
 それを美羽が、悲しんでいるのだと勘違いしたのだろう。
「渚、大丈夫?」
 美羽が私の方に寄ってきて、肩を触る。私はそれをはねのけた。
「大丈夫なはず……ないでしょう」
 私は美羽から目をそらした。心配そうにしている美羽の顔を、見たくはなかった。
 そのうちカズ君が顔を上げ、私のほうを見た。
「ごめんな、万波。あんなところ、お前に見せて……」
「……なんでカズ君が謝るのよ」
 私がカズ君をにらむと、カズ君は私と目を合わせようとしなかった。
「いや……その、誤解させたくなかったんだ」
「付き合ってるんでしょ?」
「違うんだ、えーと……ま、まじめに聞いてくれ」
 カズ君はなぜかしどろもどろして、何か言いにくそうな表情をしていた。
 私は彼の口から、どんな言葉が出るかと覚悟していた。彼の口から聞けば、何もかも終わらせられると思った。
 しかし彼の発した言葉は、私の予想をはるかに上回る、衝撃の言葉だった。
「俺は……お前のことが、好きなんだ」
「……え?」
「その……そのことを、美羽に相談してたんだよ。部屋にいた他のやつらは、話があるからって……出て行ってくれたんだ」
 私は、空いた口がふさがらない思いだった。きっと今の私は、とんでもないまぬけ面をしているのかもしれない。
 信じる信じない以前に、状況を把握することができなかった。
「万波も美羽のことを相談相手にしていたことは、美羽から聞いて知った。だから俺も、万波のことについて美羽に相談していたんだ。こんな形で告白することになったけど……俺は本当に、万波のことが好きなんだ。信じてくれ」
 カズ君の照れくさそうな顔は私の目を見なかったけれど、それでもカズ君の思いは十分に伝わった。
 私は何をバカなことをしてしまったんだろう。私は、勘違いしていたのだ。本当は両想いだったのに……私は失恋したものばかりだと思っていた。
「ごめんなさい、私……本当にごめんなさい……」
 私は心の底からカズ君に詫びた。涙を流し、後悔し、頭を下げた。
「謝らなくてもいいんだ。自殺を止められて、本当に良かった……」
「……え?」
 私は一瞬、その言葉の意味がわからなかった。だって私は、すでに──
「後悔や失敗や、つまらない思い過ごしなんて、人間はたくさん犯す。人生は、後悔の積み重ねだと思うんだ」
 カズ君は、今度は私の目を見て話した。
「きっとこれからも、たくさん失敗や後悔をすると思う。ツラい目に合うと思う。でも、人間……死んじゃったら、元も子もないんだよ。ツラい目に合っても、慰みを求めたり、また前に進むことができる。死んだら、もうそこで終わりなんだよ。失敗のあとの成功を見ずに、死んだりなんかしちゃだめだ」
「カズ君……」
「だから万波、お願いだから……もう自殺なんかしないでくれ。俺が、そうさせないように、がんばるから」
 カズ君は涙を流していた。私に対しての、必死の訴えだった。
「……わかった、わかったから泣かないで」
「ごめんよ……」
 私とカズ君は、手を取り合い、互いを分かち合った。
「ううん、いいの……もう、バカなことはしないから」
 私とカズ君は、ただ泣きじゃくった。時間の許す限り、二人で泣いた。その姿を見た美羽も、笑いながら涙を流していた。良かったね、良かったねと肩をたたいてくれた。
 そうだ……私は死んでなんかいない、美羽とカズ君に、助けられたんだ。あれは夢だったんだ。
 これから私とカズ君は、楽しい修学旅行を送るんだ──


 残された泉南島には、あのカウンセラーが一人だけ立っていた。
 その手には、万波渚が海に落とした、もう片方の靴を持っていた。
「……人は、生まれたときからみんな平等なんだ。同じ生命、同じ種族という点で、私たちはみんな平等だ。ただ、それぞれに置かれた境遇……『条件』が違うんだ。
 勘違いしないでほしい、私だけが不幸だなんて思わないでほしい。あなたが生まれたとき、そこにいた母はきっと笑っていたはずだ。生まれてきて良かったねと、涙を流したはずだ。『条件』が自分自身の首をしめ、自分自身が勝手に不幸だと思わせているだけなんだ。でもそれは、少しだけ間違っている。人間の幸福と不幸は、みんな平等なんだ。
 『たまたま』今の二、三年が不幸だからといって、そこで身を投げ出さないでほしい。五十年以上もある人生の、たった二、三年じゃないか。誰にだって必ず、不幸は訪れる。けれど、幸福もまた同じように訪れるんだ。信じてほしい。
 その幸福をつかむ前に、どうか人生をあきらめないでほしい。
 生きていることはさぞつらかろう。悲しかろう。けれど今まで生きてきた人生すべてが、悲しい時間のみではないはずだ。楽しい時間だって、きっとあったと思う。人生なんて、その繰り返しなんだよ。
 その人生の中で、人は必ず罪を犯す。でも、限界点さえ超えなければ、そんな罪だって、いつか『そうしてよかった』と思える日が来る。それは、あなたの不幸を、幸福が乗り越えたときだ。どんなにツラいことがあっても、いつか、あんなことがあったなと、笑いながら話せる日が来る。
 その日までどうか、自分を信じていてほしい。
 もう、彼女以外の誰もが、この島へ来ることのないように──」
 かつて泉南会でカウンセラーをしていたその影は、霧にまぎれて消えていった。
 次に誰かが訪れる、その日まで──


   *

 ──続いて、次のニュースです。
 今日未明、太平洋沖にて、三日前に修学旅行中の中学生を乗せ沈没した巨大貨物船が発見されました。
 引き上げられた船は、スクリューが破損していた状態で見つかりました。岩盤か何かがスクリューに激突したという説が浮上していますが、原因は不明です。これについては、追って報道いたします。
 死亡者の数は計り知れず、現在二百名以上の死者が確認されています。生存者はまだ見つかっておらず、死亡者の身元確認が急がれております。
 この船は三日前に、第三東中学校の生徒百七十一名と、教員、船員合わせて五十名余りを乗せており、出港して間もなく沈没したものとみられています。先ほどお伝えしましたとおり、原因はまだ不明です。
 ご遺族は、深い悲しみと怒りに胸を押さえるばかりです。
 本当に悲しい事件です……尊き若い命がたくさん亡くなられるという、悲惨な事件となりました。明日もまた、引き続いて報道いたします。
 続いて、次のニュースです──



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