| IntoEyes(改訂予定) | 【短編小説】| 小説ページへ戻る | |
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オレの家には父さんというものがいない。いわゆる母子家庭というもので、祖父母も兄弟もいない。一人っ子だということを寂しいとも思ったことはない。母さんがいるから寂しくはない。ただ小学生の頃、マザコンだとか一人っ子だとかで、いじめの対象にされたことはあった。
父さんはオレが生まれる前に亡くなったらしい。物心がついたときから和室には父さんの遺影が飾られていて、これがあなたのお父さんよ、と言われたことがある。実感は全くない。 見たことのない人の写真を見せられて、これが自分の親だと認めざるを得ない立場が嫌だった。しかし他に父親らしき人物もいないし、それに父親なしではオレは生まれない。 幼稚園ぐらいだろうか、夜寝ているフリをしているとき、和室で母さんがすすり泣いているのを見た。そのとき初めて、『アレ』が自分の父親なんだと理解した。 本当はどこかで気づいてたんだ。その遺影に写っている人物と自分の顔が、日を追うごとに似てきだしたことで、やっと信じれる気になったのだ。 でも実はもう一つ、誰も信じてくれないだろうけど、ある秘密のおかげでオレは、父親だという真実を悟ったワケがあった。 遺影に写っている父さんの瞳は、右目は茶色なのに左目が金色をしていた。母さんに、これは何? と聞くと、どうやら父さんは『金銀妖瞳(ヘテロクロミア)』という虹彩異色症にかかっているらしく、左目の視力はほとんど無かったらしい。遺影に写る父さんが見せる金色の目は、夜見ると不気味な輝きを放っていた。 そしてオレも、父さんと似たような症状を左目に持っていた。それがオレと父さんを繋ぐ真実の一つだと実感した。 見た目は普通の茶色なのだけれど、ある異常を来たしていた。それは左目だけ視力が無くなるという父さんの症状とはま逆の、そう…… イントゥ・アイズ 〜その瞳に映るのは〜 1 お前ら、今のが見えなかったのか? 初めてその異変に気づいたのは幼稚園の頃。空をぼーっと眺めていたとき、目の前に鳥が飛んできたので、思わず目をつむって大げさにしゃがみこんでしまった。実際、まわりに鳥なんていない。他の子たちからは随分とからかわれたのを覚えている。 その時は本当に、目の前に鳥が迫ってくるように見えた。しかしその鳥のことなど、周りにいた子は全く見えていない。幽霊でも見えるのかとも思ったけど、そうじゃなかった。 最もその異変に気がついたのは、小学校一年生のときの視力検査。左目を隠して右目の視力を測り、次に右目を隠して左目の視力を測るのだが、その時奇妙なことが起こった。 オレの通っていた小学校では、視力検査に大小大きさの異なるひらがなとカタカナが混じった板を見せられ、何の文字が書いてるかを読み取る検査だった。左目で視力を検査しているとき、右目では見えなかった最下部の小さい文字が、はっきりと見えるのだ。 ただ左目の視力が右目より良かったとか、そういうのではない。 左目だけで見た窓の外の景色は、どれもが鮮明に映し出されていた。窓から見える範囲では、どの看板の文字も正確に見えていて、限りなく遠く限りなく小さい文字も、左目ではっきりと読み取れたのだ。 それだけではない。たまたま窓の上を通りかかった飛行機に書いてある文字が読めたのだ。あの頃のオレは英語なんて読めなかったから、見えてはいても何と読めば良いのかわからなかった。しかし、もっと異常な事が起きた。遥か上空を飛んでいる飛行機の、窓側に座っている人の顔が見えたのだ。それも鮮明に。 普通の人間の視力ではあり得ないことだった。 そう、オレは『左目だけ異常に目が良すぎる』という、奇妙な目を持ってしまった。左目は、父さんが怪しい金色の光を放っていた目だ。父さんの何かしらの遺伝なのだろうか? しかし母さんは、父さんの左目の視力はほとんど無かったと言っていた。ではこれは、何なのだろうか? 視力検査を忘れて窓をぼーっと眺めていると、先生から注意された。オレは慌てるようにして、次に検査を受ける子と交代した。 最初は誰にでもあるものだと思っていて、とくに自慢げにそのことを喋ったりはしていない。日に日に、オレの周りにはそんな目を持った人間がいないのだとわかると、ますますこの目の事は誰にも喋れなくなった。 うっかり冗談まじりで喋ってしまってから、小学生の頃から「すごく目がいい人」だとか「望遠鏡」だとかあだ名をつけられた。 からかわれたりしていたわけではないし、自分でもまんざらではないと思った。 オレはその、自分の奇妙な左目の現象のことを、『ズーム』と名づけた。 文字通りどんなに遠くてもズームすれば見えてしまう、そんな人間になってしまった。 中学に入ってからも相変わらず「望遠鏡」扱いだった。たまにバカにするヤツが出始めたけど、オレはそんなこと気にしたりはしなかった。学校の屋上から町を一望して、どこに何があるか、何が書いてあるか、的中させた。 友人たちと屋上で遊んでいるうち、ふと、こんなことを考えた。 ──この左目は、どこまで見えるのだろうか。 その日からオレは、自分の目について色々研究してみることになった。 見渡せる限りのものは、少々遠くても、少々文字が小さくてもはっきりと見えていた。けれどある距離を越えると、右目で見ているのとなんら変わらない、小さい家やビルが並んでいるだけだった。 両目で見るから、右目とピントが合わさってあまり遠くまで見えないのかもしれない。そう考えたオレは、視力検査でそうしたように、右目を閉じて左目だけで見るとどうなるのか試してみた。すると驚くことに、物凄く遠くまで見渡すことができるとわかった。 屋上に立ち、彼方に見える水平線を左目だけで見る。東には山が見え、山頂付近にある遊園地の観覧車に、誰が乗っているのか一目でわかった。ちなみにその遊園地は、右目で見ようとしてもと全く見えない。遠すぎて、山の上に小さい点が並んでいるようにしか見えなかった。 西にあるビル群の間をかいくぐるように左目で見通すと、ビルとビルの間に海が見える。あの海は小さい頃に母さんと友人とで遊びに行ったことがあるが、母さんの運転する車でだいたい3,4時間以上はかかったはずだ。それにやはり、右目で見ようとしても全く見えない。あの海がこんなに近くにあったのかと思ったが、近く感じるのは左目のせいで、実際は遠い。 そんな研究をしているうち、また新たな発見をした。「望遠鏡」のあだ名はシャレだと思っていたが、オレは自分のことを、本当に望遠鏡かと思った。なんと、ズームインとズームアウト──すなわち、拡大と縮小が思いのままにできるのだった。ただ一面に広がる風景を見渡すのではなく、見たいと思うところに左目を合わせ、よく目を凝らすと、その見たい場所に視界がズームインしていく。右目では小さく点のように映っていたものが、左目を使って、さも目の前にあるかのようなでかさで表示されるのだ。 幼稚園の頃に体験したあの出来事は、知らず知らずのうちにズームインしていたからだとわかった。右目で見ればもちろん、鳥は遥か上空を飛んでいたはずだった。左目を使ってズームインすることで、飛んでいる鳥が間近にいるよう錯覚させたのだ。 この瞳に映るものなら、どんなものでも鮮明に映し出せる。そんな気さえした。 ある夜、自分の目の限界を試したいと思い、もっと遠くのものをどこまではっきりと映せるかという実験を行った。 地平線じゃ物足りない。次の対象物は……月、だった。 太陽を、と考えたが、この左目で太陽を見ればおそらく失明してしまうだろうと思ったので、それはやめた。 この右目で見える月は、いつも丸く、小さく、おぼろげに光っているだけだった。よく月面にうさぎ模様が描かれているとか聞くけれど、肉眼ではなかなかとらえにくかった。この町は空気がよどんでいるから、なおさらだった。 左目で月を見るとどうなるのだろう……家の屋上に一人立ち、月を眺めていた。 月が雲から開放され、表面があらわになったとき、オレはズームをし始めた。 やはり地上とは全く違うのだろう、なかなかズームインしても月の表面ははっきり見えない。雲はもう、体のすぐ真横にあるような気がするほど近くに見えていた。今ここで後ろを振り向くと、家の屋上の扉がそびえ立っているのだろうなと思った。 地平線の彼方でさえ、2,3秒もあれば鮮明に見えていた。しかし月は、10秒も経っているというのにまだ見えない。『見えている』だけで、はっきりと『視ている』わけではなかった。 それでも、20秒ほど経てばようやく月の表面が見えた。一瞬、あぁ、確かにうさぎの模様だ、と思ったが、物凄く早いスピードでズームしているのですぐに月の模様は消えた。その代わりに見えるのは──数百個もあるクレーターの数々だった。 そこには、人類が語る神秘さも、うさぎ模様も、何も存在しなかった。無数のクレーターと、荒れ果てた大地だけがそこにあった。きっと月の上に立つとこんな感じなんだろう。遠くから見れば綺麗に光る星の一つだが、近くで見ると……学校のグラウンドの上に立っているのと、なんら変わらない。 月から少し目を離すと、空には数え切れないほどの星が……いや、空に浮いているだけの『ただの岩』があった。いくつかは物凄いスピードで月を旋回し、いくつかは大気圏で燃えているのが見える。そしてすぐに消えた。きっと右目で見ると、あれが流れ星なんだとロマンを抱くのだろうか。 今まで抱いていた空のイメージが変わった。月も星も、ただ空に浮いている一つの岩に過ぎなかった。しいていえば、この地球のどこにも存在しないぐらいの大きさだけれども、それでもただの岩だった。月や星なんてものは、左目で覗いてしまえば光りもしない。星座なんてものも、本当は存在しない。 ズームする前は期待に胸を膨らませていたものだが、いざこうして視てみると、なんだか寂しくなってきた。オレはまだまだ子供だけど、まるで現実を突きつけられてショックしている大人たちのようだった。 母さんがオレを呼んでいる声がする。オレは急いで月からズームアウトしようとしたが、右目と同じピントに合わせるのには30秒ほどかかった。 あの日以来、ロマンだとか空への憧れだとか、そういうものは一切感じなくなった。生きることが楽しくなくなったとかそういうものではないが、少なくとももう、宇宙飛行士だとか、月面旅行だとか、そういうものには興味が無くなったと思う。 友人たちにも、お前ちょっと冷めてるぞ、と言われた。もちろん普段は明るく、普通に遊んでいるつもりなのだが、どうも空想の、夢物語の話になると、顔が暗くなるらしかった。 お前たちが思っている空は、全然綺麗じゃないよ。ただの岩と、暗黒しかないんだよ。 そんなことを言っても笑い飛ばされるだけなので、言わなかった。 家に帰っても、UFOの特集だとか、地球はこうして生まれただとか、そういう番組は見なくなった。天文学者たちにロマンのかけらも無いのと同じく、だんだん空に感動することなど無くなってきた。海も山も、近くで見れば、風呂にたまっている水やグラウンドに生えている木々となんら変わりはない。そう思うと、この目に映るものは、実は全然楽しいことなんてなくて、ただの一つのものに過ぎないのだろう。隣の家も数十キロ先の家もオレにとっては一緒だったし、最近この町に出来た新しいテレビ塔を一緒に見に行かないかと友人に誘われたが、学校の屋上からでも見えるからと言って断った。きっと彼らはそのテレビ塔に登って、オレと同じ景色を眺めるのだろうか。しかし彼らは、ただ目の前に風景が『見えている』だけでしかなく、『視ている』オレにとっては綺麗ともなんとも感じなくなった。 きっと、遠くから見渡すから風景は綺麗だと言えるのであって、実際そこに言ってみればありふれた砂や海や木々でしかない。いつからかオレは友人たちに、冷たい目をしてるよ、と言われた。 オレのことを望遠鏡だと呼んでいたかつての友人たちも、だんだんオレの周りから遠のいていった。最後に言われた言葉は、一緒にいても面白くない、だそうだ。 ──そしてそのまま時は流れ、中学二年生になった。 一緒にカラオケに言ったりしている友人もいるにはいるが、だいたいがうわべだけの付き合いになってしまったこのクラスにも、だんだん無感動になっていった。 この目を持ってから……見えないものまで視えるようになってからは、便利だと思う反面、つまんないなと思うことのほうが多くなった。 何に対してか。全てに対してだった。 使い慣れていくうちに顕微鏡としての働きも持ってしまったのか、アイドルの顔にある小さなシミやソバカスを発見するようになった。それからはなおさらつまらないなと思う日が増えた。 オレのこの左目は、確実に進化していってる。しかしオレの心は、あの日、月を視るという実験をした日から、止まったままだった。 そんな二年生の春、オレのクラスに一人の転校生が現れた。 背はオレよりやや低めの女の子だった。顔立ちも良く、この目さえなかったらもっと綺麗に映るんだろうな、と思った。 軽い挨拶と自己紹介をして、たまたま空いていたオレの隣の席へ座る。彼女の名前はナラというそうだ。白い杖を使って足もとをさぐりながら、おぼつかない足取りでこっちに向かってくる。 隣の席に座ると、よろしくね、センリくん、と声をかけられた。そういえば名前で呼ばれたのは久しぶりだった。 隣に座る彼女は、机の横に白い杖を置き、そのまま机をこっちに寄せてきた。 どうしたの? と聞くと、授業で言われたことをわかりやすく教えてほしいの、と言った。 ナラは、目が見えなかったのだ。自己紹介の時に両目とも失明していますと言っていた。盲目の少女だったのだ。 そしてこの日から、オレとナラの奇妙なやりとりが始まった。 2 彼女からおおよその話を聞くと、彼女──ナラは留年したり、飛び級で進学したりはせず、オレらと同じ14歳だそうだ。生まれてすぐ失明したという、未熟児だったらしい。物心がついたときには、永遠に真っ暗な生活が始まっていたという。 どうやって学校に来ているのかというと、家の車で送迎されているらしかった。放課後ナラの姿を目で追っていると、高級そうな黒い車に乗せられていた。どっちかというと老けたおじさんみたいな格好をした人が運転していて、あとで話を聞くと迎いを頼んでいるのは執事だという。 執事だって!? オレはびっくりして声を上げた。どうやら彼女の父はなんとかっていう会社の代表取締役、兼、社長だと言う。母もこれまたお金持ちで、昔は芸能活動をしていたそうだ。今は休止しているらしく、父の事務を手伝っているという。 父も母も普段はほとんど家にいることがなく、ナラの身の回りを手助けするのは、彼女の父が生まれる前からその家に仕えていたという執事が一人。それと、ホームヘルパーと呼ばれる、雇われの家事手伝いをする女の人が四人いるそうだ。それぞれ分担が決められているらしく、彼女の家はすごく広いというので四人でも足りるかどうか、だそうだ。オレは二階建ての狭い一軒家でも満足しているというのに、ナラの家はきっと館みたいなところなのだろうか。 家の中での身動きや、ちょっと外を歩いたり買い物したりするときは、愛犬と一緒に行動するらしい。もちろん盲導犬だ。名前はアーノルドという。ナラはアーノルドの姿を全く見たことがないと言うのだが、ナラより大きな犬らしい。手触りや感覚からしてアーノルドの上に乗れそうだと笑って言っていた。 その笑っているナラ目はいつも閉じていて、オレの前では決して瞳を開こうとはしなかった。気持ち悪いから見せたくない、だそうだ。 学校にアーノルドを連れてくるわけにはいかないので、ナラは学校内では白い杖を決して手放そうとはしない。この杖でナラは身辺を探り、目に見えない情報を体に取り込む。アーノルドがいないときはその杖が彼女の目の代わりをしており、その杖が無くなるとひどく孤独な気分になるという。ふざけた男子たちがナラの杖を取り上げる事件があったとき、オレは思わずそいつらに怒鳴ってしまった。必死に取り替えしてナラに杖を渡すと、優しく微笑んでくれた。その時もまた、目は閉じたままだった。 授業中は先生が話していること以外は何もわからないので、先生が黒板に字を書いているときには、なんとかうまく伝えようと懸命になってナラに話をした。そのたびにナラはありがとうと言ってくれるが、ナラの手元には教科書もノートもなく、鉛筆や消しゴムといった筆記用具も一切無かった。ナラはノートを取る代わりに、自分の頭に強く記憶するしかない。オレは授業なんてまじめに聞いてなく、黒板に書いてあることをそのままノートを取る程度しかしなかったが、ナラはそれすら出来ずに困っていた。きっとオレが授業内容を伝えても、ナラはそれを全部は覚えきれないだろう。痴呆障害などではなく、話を聞くだけでは次の日まで記憶しておくことは難しい。何度も単語を呟いて覚えようとするナラの姿を見ると、胸が痛くなった。 いつしかクラス中の生徒も、先生も、ナラの扱いは全部オレにまかされたような空気になった。クラスにとってナラは厄介者なのだろう。ナラは体育の授業に参加できないので、センリも一緒にいてやりなさい、と言われナラの面倒を見ることになっている。ナラはごめんねと謝るが、クラス中の生徒がオレから距離を置いてることはナラは知らなかった。オレもあいつらには興味無かったので、その分ナラと関わる時間が増えたと思えば良い。 うちの中学の昼食は弁当だった。ナラは自分のカバンから手探りで、家事手伝いのうちの一人が作ってくれる弁当を取り出す。母から弁当を作ってもらったことは一度も無いと、ナラは悲しいな顔をした。弁当の中にあるおかずをうまく掴めないときもあった。オレはナラの口におかずを入れてやると、こういうの夢だったんだ、と、いつもの優しい笑顔をオレに向けてくれる。そう言われるとなんだか照れくさくなった。でも、そのときに聞こえる他のクラスメイトのひそひそ声が、オレの気分を低下させる。 そしてその時気づいた。オレはナラに気があるのではないか、と。 さすがに、と言うと失礼だから言わなかったが、14年間も目が見えないだけあって、一人歩きも得意そうに見えた。杖と、もう片方の手を使い周りを探り、階段は常人と同じ速さで上り下りできるし、廊下も怖気づかずに平然と歩いていた。ただ教室に入るときと、自分の席に座るときだけは手こずっていた。 それでも一人で歩くのは怖いという話を聞いてから、いつしかナラとオレはいつも一緒にいるようになった。といっても、朝登校してナラが車から降りてから、夕方下校してナラが車に乗るまで、だった。それ以外はナラがどこで何をしているかも知らない。もちろん家で何があったとか今日はどこに行ったとかはナラからいつも聞いているのだが、聞いているだけでオレは実際に見たことがなかったし、そのときにナラがどんな思いや苦労をしているのかも知らなかった。 オレはというと、最近はあまり外にも出ていない。ベッドでぼーっとしたり、思い出せば宿題をやったり、母さんと話をしながら夕飯を食べたりしている程度だった。あれからやっと、ナラと会う時間だけは楽しいと思えた。けれどナラが学校を休んだときはその一日が全くつまらないものに変わってしまう。よく目を凝らせば、ノートに書いてある文字なんてのは、鉛筆から出た鉛の削りカスにすぎない。授業中に携帯電話を操作している女子だとか、その携帯電話で何をやっているのかが全て見える。テストになると斜め前のやつが何を書いているかが見える。空を見上げてもそこにはただの水蒸気の塊しかなく、屋上にはしばらく行っていない。ナラがいないときのオレは、いつもの塞ぎこんだ状態になってしまった。 最近母さんは、父さんの話題を出さない。オレみたいに、現実を突きつけられて諦めたのだろうか。父さんの遺影がある仏壇にも、線香を灯すだけで他に何もしない。父さんの左目はいつも怪しく光っているだけで、話しかけたり触れたりはできないのだ。母さんの気持ちが、わからないでもなかった。だからオレからも、もう父さんの話は聞かないことにした。 その代わりにナラの話を沢山した。ナラの目のこと、学校での出来事を色々喋った。時折、あの人の片目もそうだったわね、と言うときがあったので、とっさに明るい話題に変えた。 母さんに、その子のことが好きなの? と聞かれて、一瞬何と答えればいいかわからなかった。これが好きという気持ちなのだろうか? 何かを好きになるという気持ちはあの日に全て置いてきたので、本当に好きかどうかわからなかった。何でもよく見えてしまう目、見えなくてもいいものまで見えてしまうこの目のことを理解してからは、人との関わりさえ拒絶していたから。 結局そのときは、あいまいな返事しか返さなかった。 二年生の春も終わり、梅雨の季節に差し掛かったころ。ナラと一緒に下校していると、校門にいつもあるはずの黒い車が、その日は無かった。どうしたのだろうと聞くと、今日から車は朝だけ出してもらうことにしたの、と言う。 朝だけ? うん。 どうして? 帰りは、センリ君がいるでしょ? そう言うとナラは俺の手を握り、道案内よろしく、と機嫌よく頼むのだった。 しかしこっちはそんな準備は全くしておらず、いきなり手を握られても声にならない声が出るばかりで、心臓の鼓動だけが先走っていた。 道わかるの? と聞く。この学校はいつも車で来ているところしか見たこと無いので、歩きでは家までの道のりはわからないんじゃないかと心配した。しかしナラは得意げに、大丈夫まかせて、と言った。前日の晩、マユミという『お手伝いさん』と何度もこの道を歩き、道を覚える訓練をしたという。ちなみにマユミは、ナラと一番仲が良い『お手伝いさん』だそうだ。 そのナラのがんばりが嬉しくなって、オレは道中舞い上がっていた。ナラに道を指示され、その道をオレが案内する。手を握る彼女の足取りはまだおぼつかなかいものだったけど、センリ君がいるから大丈夫、と言われたときは顔がニヤけてしまった。ナラには見られることはないから良いが、もし周りの他人にその光景を見られたら……オレってただの変態じゃん。 車で登下校しているだけあって家は遠いのだろうと覚悟していたが、学校からそんなに遠くなかった。歩いて10分もすると、もう家の前に到着した。最初はどこの公園だろうと思ったが……普通公園に門はないよなあ。これが家か? 驚きを隠せなかった。 それにしてもどこかで見たことあると思ったら、学校の屋上で『ズーム』してたときに見たことがある。大臣でも住んでるのかなと思ったが、まさかここがナラの家だとは。 門をくぐるととてつもなく広い庭が広がる。まず門から玄関までの距離が遠い。校門をくぐってグラウンドを通り、やっと玄関にたどり着ける学校と同じぐらいだった。この家の庭は、学校のグラウンドぐらい広い。こんな平凡な街に、こんな空間があったとは。 大きい家でしょ? ナラが話しかける。私は見たことないけど、と付け加えて。 そうだ、生まれたときから目が見えないナラは、自分がどういうところに住んでいるのかも知らないのだった。大きい、と言えるのは、マユミと散歩しているときにそんな話を聞いたからだ。ナラは『普通の家』がどういうものかは想像でしか知らないらしいが、少なくともここが『普通の家』ではないのことは、マユミから聞かされていたという。 その話を聞いたとき、一瞬胸がつまる思いだった。何だろう、なぜかはわからないけど、胸が痛む。 その胸の痛みの原因を、そのときはまだ知らずにいた。 今は、高鳴りを抑えるだけが精一杯だった。 3 しばらく歩くとようやく玄関にたどり着く。庭の向こうにはおなじみの黒い車が見えたので、やはりここがナラの家なのだとわかった。 扉を開けると、かわいらしいメイド服を着た四人の女の人が出迎えてくれた。いらっしゃいませ、と頭を少し下げた後、二人はすぐどこかに行ってしまった。残ったのは、髪を三つ編みにしている人と、男かと思うぐらい髪が短い人だ。 オレのことはナラからすでに聞いていたらしく、ようこそセンリ君と再び頭を下げられた。三つ編みの人から話を聞くと、この人たちはナラの話に出てきた『四人の家事手伝い』だった。 この三つ編みの人がナラの世話係、ボーイッシュな髪をしている人はこの家の警護を任されているらしい。去っていった二人は食事係と掃除係で、彼女たちが休めるのは昼の三時あたりと、夜九時から朝の四時までだという。 警護を勤めるこの人はたまに掃除を任されるのだが、それ以外は何もない。家に怪しい人が入ってこないかを確認するために家中を歩き回っている。たまに部屋にこもって監視カメラを見ているときもあるらしいけど、とりあえずは暇なのだと言っていた。 三つ編みの世話係、この人がマユミという人らしいが、彼女はナラに対して語学の勉強や一般知識、社会情勢などを教えたり、遊び相手になったりしているらしい。『お手伝いさん』の中でも一番優しいらしく、そして良き指導者でもあった。マユミとナラの間には、強い信頼関係があった。 ナラが、今日は付かなくていいから、と言うと、マユミは軽く会釈してどこかへ去っていった。警護の人はナラの部屋に入ることはないらしい……え、ちょっと待てよ? 部屋って? オレが聞くとナラは、せっかく来てくれたんだから私の部屋でゆっくりしてよ、と言う。女の子の部屋に入るのは生まれてから一度もなく、これが初めてだった。嬉しい反面、もう一人のオレが何かしでかすんじゃないかという気持ちもあった。心ではどう思っていようが、身体は正直なのだ、などと妄想をしているうちに、周りにいるのはナラだけになった。 案内するね。今度はナラが先を歩き、オレは後ろからナラに引っ張られる。車が通れるんじゃないかと思うほど広い廊下を歩き、大きな階段を上がると、二階の廊下の一番奥にナラの部屋はあった。それまでにいくつもの扉を通り過ぎた。こんなにある部屋を、いったい何に使うのだろう。 少し恥ずかしそうに、ナラが自分の部屋を紹介する。まず最初に、部屋がかなり広いということが第一印象だった。天井も高く、小さいシャンデリアのようなものが部屋を照らしている。オレの部屋の三倍はあるんじゃないだろうか。 白い壁にはピンクの水玉模様があり、床は高級そうなカーペットが敷かれていた。テレビは無かったが、本棚があった。沢山本が入っている。ナラは目が見えないので、マユミが朗読してくれるそうだ。 ベッドや枕も高級そうで、それは今まで見たことないものばかりだ。子供用の勉強机だけがオレの知っている唯一のものだったが、この部屋に子供用の勉強机はひどく似合わない。 部屋の隅、ベッドのすぐ横にも小さな毛布が置いてあった。よく見るとそれは犬用のベッドらしく、ナラに聞くと夜はいつもアーノルドと一緒に寝ているそうだ。今はどこにいるの? と聞くと、執事と散歩に行っているらしい。いつも執事がこの家にいなければならないのだが、アーノルドはナラと執事にしかなつかないらしく、仕方なく執事が散歩に行っている。 座って、と部屋の真ん中にある座布団を指差した。位置がわかるの? と聞くと、この部屋の構造ぐらいは全部覚えてるから、と自慢げに話した。 しばらくしてマユミがオレンジジュースを持ってきてくれた。ありがとうと言うと、会釈して部屋を出て行く。愛想ないなぁ。 それからオレたちは他愛もない話をした。最初の頃の緊張感はもう無く、いつもの学校で喋っている風景となんら変わりはない。ただ、部屋が広すぎるのが落ち着かない。 学校にいるときよりも可愛らしい笑顔を見せてくれる。本気で惚れてしまったのだろうか、オレは。ナラと会話している一分一秒が嬉しくて、顔が赤くなったり急に声が高くなったりしてしまう。ナラに気づかれないだろうかと意識してしまうと、また緊張感が戻ってくる。無意識に喋っているときは楽しいばかりだ。オレは終始、平常心と緊張感の連続だった。 太陽が傾きかけた頃、ドアから何か音が聞こえる。何だろうと思う前にナラがドアのほうに走り、開けた。すると勢いよく何かがナラを襲った。大きな声を出してしまったが、よく見ると襲われたのではなく、ナラに抱きついているような感じだ。目の前に、尻尾を嬉しそうに振っている大きな犬がいた。 この子がアーノルド? うん、かわいいでしょう。散歩から帰ってきたのね。 その全身は茶色と白の毛に覆われ、ナラに抱きつく姿はアーノルドの全身をいっそう大きく見せる。一瞬、あれがオレだったらな、と思った自分が恥ずかしい。 とはいえオレから見ればやはり犬は犬。大きいといっても、他の犬よりは多少大きいだけで、実際それほどバカでかいとは感じない。どこにでもいる普通の犬……ではないか、盲導犬だもんな。 アーノルドの頭をなでると大きな声で吠えられた。何か気に障ったのだろうか、アーノルドはオレを敵視しているようだった。この子ってオス? と聞くと、うんそうだよ、とじゃれ合いながら答えてくれた。あぁなるほど、オスか。オレは何か納得したような気分になった。 その後はナラをアーノルドにとられた感じだった。何かとナラとじゃれ合い、オレが近づくと何故か吠える。そのたびに悲しくなる。 時間もそろそろ夕飯時なので、オレは帰ることにした。ナラはアーノルドと一緒に玄関まで迎えてくれた。帰るときはさすがに『お手伝いさん』たちは迎えてくれないだろうが、偶然警備をしている『お手伝いさん』と会った。もう帰るのよ、とナラが伝えると、その人は走ってどこかへ消えた。すると今度はすぐに執事が来た。呼びに行ったのか、なるほど。 車で送っていってくれるというので、ナラとは玄関で別れてオレは執事の車に乗った。こんな高級そうな車に乗ったのは初めてで、中は物凄く高級そうな茶色のソファと、見たこともない模様が描かれたカバーがあった。こんなところにオレなんかが座っていいのだろうか。 乗り心地は最高で、エンジン音が全く聞こえない。ゆらゆら揺れる車の中で、つい眠ってしまいそうだった。そんな時、執事がオレに話しかけた。 あの子から話は聞いています。あなたと会ってから、あの子は以前とは見違えるぐらいに明るくなりました。心から感謝しています。 運転をしながら淡々と話す口ぶりは、本当に感謝しているのかどうかはわからなかった。オレはただ、いえいえ、と答えることしかできなかった。 その後も執事は話を続ける。ナラは今の学校に転校する前は、障害者学級に入っていたという。ナラ以外にも身体や精神に何らかの障害を起こしている子供たちが、普通の学校に通えないせいで国が設けた施設だ。予想はしていたが、やっぱり驚いた。 なぜ今の学校に転校してきたのか。 ナラはオレが中学一年生の頃、つまり一年も前から、施設の人や執事に無理を言って、普通の学校に通いたいと訴えていたそうだ。足や手が不自由なわけでもなく五体満足に生まれたのに、『ただ他の人よりも視力が低いだけ』で施設に入れられたのが嫌だったらしい。『ただ他の人よりも視力が低いだけ』とは言っても、ナラは視力が低いだけではなく失明しているのだから、アーノルドや杖無しでは五体不満足も同然だった。それでもナラは普通の学校に通いたかったそうだ。一年間ずっと訴え続けられ、ついに施設側も折れたようで、『本当に通えるかどうか様子を見る』という名目でナラを今の学校に転校させたそうだ。もし成績が他の人よりもはるかに不十分すぎたり、失明によって『普通の』学校生活が行えない場合は、夏休みに入るあたりに、また障害者学級に戻されるらしい。その学級はこの街から遠く離れた山奥にあるそうで、話の最後に執事は、もしかするとあなたに会えるのは夏までかもしれません、と告げた。 話の途中からオレは、相づちを打つこともできなかった。 家に着くと母さんが玄関前に立っていた。怒っている顔だった。連絡もせずにどこに行っていたの、と聞かれた。 あの子の家に遊びに行ってたんだ、ごめん。 遊びに行くのはいいけど、いったん家に帰って私服に着替えてからにしなさい。そう言うと母さんはリビングへ向かった。 ご飯できてるわよ、着替えたらすぐ食べなさい。 オレは食事中もうつろだったに違いない。母さんに顔色が悪いと言われた。肉体的には全然健康なのだが、あんな話を聞かされてオレはどうしていいかわからなくなった。梅雨は始まったばかりだが、春はもう終わりの時を迎えるだろう。もう一ヶ月もしないうちに、夏が始まる。ナラが『普通の』学校生活を送り、試験も並以上の点をとれば、少なくとも今年一年間は今の学校に通えるそうだ。しかし執事によると、このままの状態が続けば危ないらしい。今から試験に向けて猛勉強し、オレ無しでも学校の施設を一人で自由に行き来できるようにならなければ、障害者学級への転校を余儀なくされる。 オレが明るくなれたのもナラのおかげなんだ、とは言えなかった。でも事実だ。ナラがいなくなれば、ナラはまた暗い気持ちになり、オレもそうなってしまうだろう。それだけは嫌だった。なんとかして、ナラを今の学校にいさせたい。普通の学校で卒業証書を手にしてほしい。 食事を終えると、自分の部屋に行き電話をかける。電話の相手はすぐに出た。いつもの明るく、そして力強い声のその相手は、母さんの昔からの友人だ。 名前をレイジと言い、オレはいつも呼び捨てにしている。この街の近くの警察本部の所長を勤めている警視だ。警察官の中でもすごくえらい階級らしく、一言の発言で大勢もの警察官が動くと聞いた。態度もどこかえらそうだ。数年前までは警部だったが、進級したと言っていた。 そんな人がなぜ母さんの友人なのかは知らないが、何かの事件で知り合ったんだとか。 電話で話すことと言えばたいてい相談事で、今回もそうだった。おうセンリ、お前からの電話は何か月ぶりだろうな! と威勢の良い返事が返ってきて、耳が痛くなった。 オレは学校であったことやナラのことを話し、そしてレイジには障害者学級のことなどを色々と聞いた。本当ならレイジは眠っている時間以外は全て忙しいはずなのだが、オレや母さんとの電話には親身になって話をしてくれる。でもそんなに長くは喋っていられず、結局電話は二十分ぐらいで終わった。 オレはその子に何をしてあげれるだろう、という問いにレイジはこう言った。 もう答えは見つかってんじゃねぇのか? 答えって? 俺が聞いてやるのは相談だけ、話してやるのはヒントだけだ。そもそも俺が答えを知っているわけないだろう。答案用紙を持っているのは、お前だけだよセンリ。 何やら難解なことを言ったあと、がんばれよとだけ言って電話は切れた。レイジの言うことはいつも、オレには難しい話ばかりだった。 それでも、参考にはなる。 いつもありがとうレイジ。心の中でそう呟くと、オレは再び、何をするべきか、何をしてあげれるべきかを考えた。 こんな風にわくわくしたのは久しぶりだった。 今も相変わらず空にロマンはなく、地面に希望は転がっていない。どんなに良い建造物でも近くで見ればコンクリートの塊に過ぎない。よく見ればアイドルなんてみんなブサイクだ。俳優も全然カッコよくはない。数十キロ先でイチャイチャしているカップルや、カツアゲされている幼い少年を何度も見る。ひそひそ話していることも、口の動きを見れば遠くてもわかる。やがて全ての現実を理解し、実感してしまうと、オレ以外の人間は何を生きがいに、何を夢見て生きているのだろうと考えるときもある。 けれど。 ナラと会って、少しだけ考え方が変わった。 いや、変わったのではなく、昔に戻ったのだ。 あの無邪気な頃に。 想像を無限に膨らませていた、あの頃に。 でもまだ、答えは見つからない。 やっぱりどこかで、現実を『ズーム』している自分がいる。 こんなことでいいのだろうか、オレは。ナラは現実さえも見えないというのに、オレはナラに何をしてあげられる? 答えは見つからない。 次の日も、その次の日も、オレはナラと同じ道を歩いて、授業内容は前よりもなるべく詳しく教え、いろんな学校の施設を案内し、一人で歩く練習をした。 それでも答えは見つからない。 このままナラはどこかへ行ってしまうのだろうか。 そして気がつかないうちに梅雨も終わる。 季節は夏、今日も猛暑がオレたちを襲う。 4 いつもの帰り道でナラと別れたあと、オレは走って家に帰った。思わず顔がニヤける。 明日は『夏キャンプ』と呼ばれる学校の行事がある。オレの学校ではどの学年も、年に一度の夏休みが始まる前に行われる。金曜日の朝から土曜日の夕方まで、近くの山に行って一泊のキャンプを行うのだ。 どの学年も、なのだが、それぞれ行く場所が違う。去年オレたちは水道やかまどがある程度充実していて、キャンプ場もきれいな野外活動用のセンターだった。今年はどうやら、本格的なキャンプ場でキャンプを行うらしい。汚らしい……わけではないのだが、写真で見る限りは、去年行ったとこよりも充実してなさそうだ。水道はあるのだが、トイレが水洗ではないらしい。しかも数が少ないんだとか。 本当ならあまり期待はしていなかった。実際去年がそうだった。何をしても全く楽しくなかったので、疲れたと言ってテントの中で先に寝ていた。 しかし今年は、ナラがいる。 夏キャンプでは二種類の班を作る。炊事や遊び、キャンプファイアー時に芸をしてみせたり、自由行動のときに一緒に遊ぶ班。それと、テントを組み立て、その中で一緒に寝る人を決める班。『行動班』と『就寝班』と名づけられている。『行動班』は男女の数がなるべく同じよう、男四人、女四人程度の班が一つのクラスに五つある。『就寝班』は同性四人が同じテントの中で寝る班だ。たいていは『行動班』で同じになった四人組と一緒に寝ているのだが、人数の関係上、一人だけ余ったり一人少なかったりするクラスもある。オレの『行動班』は男四人と女四人だった。『就寝班』は男四人。いたって普通だ。 そして嬉しかったのは、その『行動班』にはナラがいることだ。 もちろんこれは先生の配慮だ。ナラと一番一緒にいて仲がよさそうなのはオレだった。他にもナラと仲のいい男女は沢山いるのだが、転校して半年もたっていないのでまだあまり打ち解けられない。ということで、なんとかオレとナラを一緒にしてくれたのだ。さすがに一緒に寝るわけにはいかないだろうが。 そのせいもあってオレはウキウキしている。さっきまでナラと一緒に下校してたときも、ずっとその話をしていた。ナラは夏キャンプのことは全く知らなかったので、オレが一から説明してあげた。ナラが、一緒になって嬉しいと言ってくれたときは、歓喜のあまり叫びたくなるなる衝動に駆られた。もちろん叫んでなどいないが。 今は明日の準備のため、母さんと一緒に荷物の支度をしている。ナラの家では、すでにマユミが先生から話を聞いているらしく、もう準備は出来ているらしい。さすが『お手伝いさん』なだけはある。こっちは携帯用の歯ブラシが見つからなかったりと、前日になって大慌てしているというのに。 母さんもオレの調子に驚いているようで、しかしすぐにナラがいるからだろうとバレてしまった。きっともう母さんの中では、オレとナラがくっついてるのが自然だと思っているのだろう。 母さんにナラと班が一緒だったことを嬉しそうに話すと、何故か大笑された。おかしいことは喋っていないのだけれど…… うまくやりなよ、と肩を叩かれた。オレは何のことかわからず、それっきり母さんはニヤニヤしながら支度の手伝いをしてくれた。なんだか、怖い。 結局準備は夜遅くまでかかって、なんとか携帯用の歯ブラシも見つけることができた。時計が二十四時を過ぎたころ、やっとオレはベッドに入ることができた。明日は遅刻せずに行くことができるだろうか、そればかりが心配だった。 いつ寝たのかもわからず、知らないうちにオレの意識は夢の中に持っていかれていた。 結局オレは、目覚ましが鳴る前に母さんに起こされることになった。 午前中は電車で山のふもとまで行く。駅の近くで昼食をとったあと、午後からは山の中を歩いて頂上のキャンプ場を目指す。これが結構ツラくて、一時間もただひたすら上に登っていくのだ。オレはナラの手をとって道案内していたので、ナラのスピードに合わせて列の一番後ろを歩いていたからそれほどツラくはなかった。上の連中はみな、先生たちのペースに合わせて歩く。といっても先生たちはなるべくゆっくり歩いてくれるのだが、それに付いていく生徒たちは息が切れていた。途中で座り込んでしまう女子もいた。 しおりの予定では一時間で着く予定となっていたのだが、二時間近くかかってしまった。キャンプ場に着くとみな疲労に声を上げる。キャンプ場での自由時間が、そのまま休憩時間に終わってしまった。オレとナラはそんなに疲労もなく、一緒に散歩したりして山の空気を味わっていた。 午後四時ぐらいになっただろうか、山には時計が無い上に時計を持ってくるのを忘れてしまったので時間がわからないのだが、テントを組み立てる時間になった。 荷物さえ無ければ六人ぐらいは入りそうな、大きな三角型のテントだ。これは就寝班がそれぞれ組み立てることになっているので、その間はナラとは別行動だ。顔に表さないよう気をつけていたのだが、同じ班のヤツらには拗ねていることがバレていた。 四人だけで組み立てるのは難しいぐらい複雑な構造をしている。あらかじめ担任から、組み立て方のしおりをもらっていたのだが、それでも四苦八苦している班もいた。 オレたちはキャンプ場の中でなるべく雑草が少ないところを選び、せっせと組み立て始めた。場所取りも結構重要なのだ。 一番背の低いヤツがテントのてっぺんに届かなくて困っていた。オレもそれほど背は高くないのだが、そいつの代わりにてっぺんにある紐を結んでやる。そいつは小さくありがとうと言って、別の作業をし始めた。まだオレは他のヤツらから距離を置かれているのだろうか。別にいいけど。 途中、一回だけ組み立てなおすことになったけれど、無事にテントらしいテントを組み立てることができた。出来上がった途端、他の班員はテントの中へなだれ込む。相当疲れたのか、横になってごろごろしている。オレもさすがに疲れたので、テントの入り口に腰を下ろした。 周りを見てみると、まだ組み立てられていない班や、背の低いもの同士になってしまった班はテントの支柱さえ立てることができずにいた。しばらくして他の教師たちが手伝い始める。早くできたオレらは他の班が組み立てている間に休めるので、ゆとりを持てた。 空を見上げると西の空が真っ赤に燃えていた。そのはるか向こうに月が見える。大きな石の塊。こんなに遠くから見上げるのは久しぶりだった。そういえばナラと出会ってから、意識して『ズーム』を使うことはなくなった。なぜだろう……。 気がつくとほとんどの班がテントの組み立てを終えていた。遠くでオレの名前を呼ぶ声が聞こえる。そういえば、テントの組み立てが終わったら行動班の皆でカレーを作ることになっている。 オレは急いで、調理場のあるほうへ走っていった。 他の男子が遊んでばかりいたのが幸か不幸か、ほとんど女子たちばかりで料理したのでおいしいカレーが出来上がった。オレはナラにも料理に参加させるべく包丁の握り方などを教えていたので、強制的に参加させられた。他の男子たちはまともに料理せず、後に食器洗いをさせられていた。いい気味だ。 カレーをいただいたあとは、キャンプ場の広い敷地でキャンプファイアーをやっていた。一つの輪になって座り込むとかなり大きい輪になるので、班ごとに固まって座ることになった。 はじめは校長先生の挨拶。どうやら毎年、二年生の夏キャンプに校長が付いてくるらしかった。去年オレらのときは教頭が挨拶をしていた。来年は誰が付いてくるのだろう。 そのあとは先生たちと生徒たちとで、クラスの仲を深めるためにビンゴゲームやダンスをした。休憩をしたあとは、班ごとに芸を出し合った。他の生徒たちを巻き込んでゲームをする班は、頭が良いと思う。芸をしろ、と言われると、どうもたいてい童話やアニメの一部のシーンを演技しているものばかりだ。ひどいところではドラ○もんを演じているところもいる。何がひどいって、全然似てないのだ。 それでも皆楽しそうで良かったと思う。 ただ一人、ナラを除いては……。 芸を出し合ったあとは、就寝の注意と、明日の連絡事項を伝え、皆テントに戻る。時間を忘れはしゃいでいたオレたちは、もう時計が九時半を過ぎているのに気がつかなかった。 帰り道、ナラはなんだか寂しそうな顔をしていた。無理もない、オレらには見て楽しめるものが、ナラにとっては何をやっているのか全くわからないのだ。声だけしか聞こえてないのだろう。自分だけ楽しめなかったことが、悔しそうだった。 オレは皆に見られないようにナラの手をひっぱり、キャンプファイアーの行われていた場所へ戻った。すでに火は消されていて、先生たちもテントに戻っているはずだ。照明は一つもないが、月明かりだけがオレとナラを照らしていた。 ……楽しくなかった? そんなことはないけど、でも、寂しかった。 どうして? 誰も私のことを見てくれないときは、私はいつだって一人なの。センリ君とか、他の皆も、キャンプファイアーに夢中だった。ううん、それは良いことなんだけど。でも、その時私は、誰と一緒に笑えばいいのかわからなかった。 ごめんな。 どうして? 何もしてやれなくて。 そんなことないよ。それに私、慣れてるから平気。 ──ナラの『慣れてる』という言葉に、オレは釘を打たれたような気持ちになった。 センリ君は優しいね。 そんなことない。 私ね、センリ君に謝らなきゃいけないことがあるの。 謝ることって? 本当は私、今度の試験の結果が悪かったら、実家に帰っちゃうの。 ……試験が悪かったら、だろ? うん、でもほら、私、前の中間試験、すごく悪かったじゃない? あれ、ナラも受けてた? えと、私は皆みたいに書くことができないからさ、先生と二人で、聞かれたことを答えたりしていたの。話さなかったっけ? あ、そういえばそんなこと言ってたな。 でしょ? それでね、そのときほとんど答えられなくて、評価が一や二ばかりだったの。だから私、次の試験で四はとらないと……普通の子として認めさせてもらえないの。 そうなんだ……。 ──話は執事から聞いていたけど、そんなにナラの成績が悪かったとは思わなかった。 キャンプから帰ったら、すぐ試験でしょ? 私、全然わからないから、次もダメになっちゃうかも。 オレが教えるじゃん。 でも……。 オレ、わかりにくかったらちゃんと教えられるようにする。何回でも読み直すから、だから、ナラもがんばってくれ。頼む。 ……センリ君は優しいけど、それだけじゃダメなの。 どうして? 自分の力でなんとかできるようにならないと。 ……。 私、センリ君にわがまま言ってばっかりで、私はセンリ君に何もしてあげられない。センリ君に助けられてばかりじゃ、私は何もできないの。 そんなことない! ……オレ、ナラが転校してから毎日、ナラに喜びや楽しみを分けてもらえた。純粋に楽しむってことが、こんなに良いことだなんて知らなかった。もうオレには何もないと思ってたから……でも、ナラがオレを救ってくれたんだ。本当だ。 センリ君……。 だから頼む、行かないでくれ。ずっとオレのそばにいてほしい。 ……。 ……。 ──しばらく沈黙が続いた。先に声を出したのは、ナラだった。 今私、告白された? ──ナラが笑いながら言った。 ば、バカ言え。 ふふっ、目は見えなくても、センリ君が照れる顔が目に浮かぶよ。 ……ふん。 ねぇ、センリ君。 ん? ここから、月、見える? ん、あぁ、見えるけど……。 ──オレは空を見上げる。 ナラは、見たことないか? うん、無い。 そっか……。 でも、見えるよ。 え? 私は、今、センリ君が見てる月を見てるの。 ……? とても綺麗な満月ね。 ──本当は三日月なのだが、オレは何も言わなかった。 ……俺は星なんて嫌いだね。 あら、あなたはそういうロマンチックなものはダメなの? そんなんじゃないけどよ……だってさ、本当は、ただの…… ──どうせただの大きい石なんだ、とはさすがに言えなかった。 私ね、思ったの。 ん? いつだって、大事な存在は、まぶたの裏にあるの。 まぶたの、裏? そう。 どういう意味? んー……最初は、この目が見えたらどんなに良いだろうかって思ったよ。今もずっと思ってる。でも、見えないことで大事な存在が見えてくるものだってある。 そう……なのか? うん。それは…… 5 それはね、『想像力』だよ。 想像力? そう。月の上に立ってみると、本当はただの、荒野かもしれない。ただ真っ黒い空が広がるだけの。そこに夢やロマンなんて、ないかもしれない。 うん。 でも、いや、だからこそ私たちは、想像するの。夢やロマンを。私は、月がどんな形をしてるのかは知らない。マユミの言う通り、まん丸かもしれない。でも私にとってはそれが、本当かどうかはわからないわ。だから想像できるの。あんな形をしてたり、こんな光り方をしてたり。そう思うと、月が私に元気を与えてくれるの。アーノルドだってそう。本当は体中真っ黒かもしれない。手にとって触ってみても、それは犬に似た何かの毛皮かもしれない。だから、想像するの。私の住んでる家はお城みたいだとか、センリ君はハンサムな人だとか……想像してると、楽しくなるよ。 でもそれは……。 ……わかってる。でも、『わかってる』からと言って投げやりになったり、飽きたりするのは嫌なの。だってそうでしょ? 例えば、センリ君が何歳に結婚してどこの会社について、いつ死ぬかなんていう将来が、正確に『わかって』しまったら、どうする? んー……嫌かどうかはわからないけど、面白くはないかなぁ。 でしょ? 何でもかんでも『わかってしまっている』状態になっちゃったら、生きてる意味がなくなると思うの。それなら私は、知らないほうが幸せ。見えないほうが幸せだわ。自分の未来や、センリ君の顔を想像してるほうが、ずっと楽しい。センリ君は、そう思わない? オレは……。 ──なんだかナラに、今の悩みを見透かされてるような気がした。確かにそうだ。『わかってしまっている』から、オレはもうあの日から、毎日に興味がなくなっていた。オレは間違っていた。こんな目を持ってさえなければ、今のナラみたいに明るく笑えるだろうか。 ……センリ君、目を閉じて。 ん? いいから。 あぁ、うん。 ──月明かりさえも途絶え、視界が真っ暗になる。 閉じた? 閉じたよ。 本当? 本と……!? ──唇に、暖かい感触が一瞬だけ伝わった。ナラの吐息が鼻にかかった。 え、ナ、ナラ……? 私、センリ君が好き。 ──それはナラの告白だった。 結局、どんなことを言っても、私は目が見えないことに変わりはないの。綺麗事とか、想像上の話をしても、現実は何も変わらないの。 ……。 センリ君は綺麗事とかは言ってくれなかったけど、そのかわりに大事なものを教えてくれた。 大事なもの……? うん。 どんな? 教えない。 な、なんでだよ。 ……センリ君は、大事なもの、見つけられた? わかんね。 きっと見つかる。 だといいな。 ……。 ……。 ありがとう、センリ君。 ……礼を言うのはオレのほうだよ。 ふふっ。 他の班員が寝静まった後、オレは一人で考えていた。ナラがあのとき話してくれたことを。 ナラはオレのことを好きと言ってくれた。顔も知らない、オレのことを。 オレは……好きになったんだと思う。 でも、でもナラは……もうすぐ行ってしまうのだろうか。 せめてそれまでに、オレはナラに何をしてあげられるのだろうか…… 夏キャンプ二日目は、たいした大事は無かった。 午前中は飯を食べたあとテントを片付け、山を降りただけで、午後は電車に乗っているだけだった。 電車に揺られている間、オレは寝ているナラの手を握ったまま考えていた……これからのことを。 ナラはオレに、大事なものを教わったらしい。しかしオレは、ナラに何かを与えた感触はない。 電車を降りたあとはそのまま学校へ向かい、体育館に入れられ、校長が少し話をしてから解散した。何人かは親に迎えに来てもらっていた。最近は執事の車を使わずにオレと一緒に帰っているナラも、そのときばかりは執事の車に乗って帰っていった。目の見えないナラにとって、山を歩いたり他人とコミュニケーションをとるのは疲れるのだろうか。テントの中で女子たちと何を喋っていたのかが気になる。 そして── 夏キャンプが終わってすぐにテストって、地獄じゃないか? オレは次の日から、テスト勉強に熱を入れまくっていた。 ナラに迷惑をかけないため、そしてナラ自身にも勉強を教えるために。 日曜日、オレは早速ナラの家に言って、勉強会を開いた。 世話係のマユミも、ナラのためにと得意分野をふるって勉強会に参加した。とは言っても、マユミの得意分野は……社会、ただ一つだった。 ち、中学の勉強なら、数学とか英語とかもわかるかも。 マユミはそう言うが、はっきり言ってオレよりもできていない。せいぜいかけ算やわり算が暗算できたり、漢字が少しだけわかったり、小学生でも知ってそうな英単語を並べたり……本当に尊敬できるところは、社会の科目だけだった。 たまに部屋を出ては、マユミは差し入れを持ってきてくれた。アーノルドも、しっぽを振りながらナラが勉強している姿を見つめている。 目が見えないナラは、何かを書くという行為ができない。先生の発表によると、ナラには個別で特別なテストが実施されるらしい。問題内容は、各教科の問題文を点字に直したものや、先生自身がが質問したことをナラが口頭で答えるものだ。点字に関してはすべて読めるらしく、あとは問題の内容を理解したり、ちゃんと質問に答えられるかどうかが心配だ。 オレが質問したことを、ナラは答える。答えられたら、次の質問へ。答えられなかったら、なんとか書かずに口だけで説明できるよう工夫し、語呂合わせなどを使って覚えさせる。たまにオレが知らない問題をナラが答えたりもしていた。 オレは特に得意科目なんかなくて、全体的に普通だ。赤点があるわけではないけれど、80点や90点ぐらい取れそうな科目も……ない。というか、今まで真面目に勉強していなかっただけで、やればできるということをクラスメイトや先生たちに教える良い機会になるだろう。 問題はナラだ。ナラの苦手な科目は、英語の長文と、数学全般だった。英語は、長文を出題されると暗記するのが難しいらしい。国語は点字で書かれてあるので、長文でも読むことができる。それと違い英語は、書かれてある文章を読むことができない。先生が問題文を言うか、あるいはテープレコーダーから流れる問題文を聞きとるしか方法がない。それでも最後まで文章を聞いていると、最初のほうに流れていた文を忘れてしまうのだ。 もちろん先生も、そういう事情は配慮してくれると思うけど…… 数学に関しては、もう聞くだけでは覚えられないそうだ。書いて覚えることができないナラは、聞いて覚えるしかない。書くことによって初めて脳は刺激されるというのに、聞くだけでは覚える量に限界がある。 分数の計算だけでもややこしい。まして、方程式や証明式を答える問題が出たら、お手上げだ。 やはりナラは、普通の学校でやりくりしていくには無理があるのだろうか。 ……いや、そんなことは考えちゃだめだ。ナラを普通の子にするために、無理をしてでも勉強するしかない。 テスト前日の寝る前まで、ナラとオレは必死にもがいた。 テスト当日。 テストは三日間に分けられている。一日目は国語と英語、二日目は社会と理科、三日目は数学と保健のテストを行う。 一日目、オレはそんなに苦戦しなかった。国語は書いてあることを読んで当てはめればいいだけだし、英語も意味がわかればさほど難しいものではない。なかなか手ごたえがあった。しかしナラは、目が見えないため文章を読むということができない。代わりにテープに録音した問題を読み上げる形となった。ナラだけは別の教室で受けているため、どんなテスト方式なのか具体的なことはわからない。話を聞くと、受け答えをするのが疲れるそうだった。 二日目、社会はマユミのおかげで楽々と解くことができた。マユミに教えてもらったところがそのまま出題され、100点満点も夢じゃないという自信があるほどだ。ナラも受け答えはバッチリらしく、ちゃんと答えることができたと言っていた。ただ理科は二人ともダメだった。英語や数学に必死で、理科の勉強はほとんどやっていなかったのだ。わけのわからない横文字ばかりで、50点取れるかどうか不安だった。ナラも同じ気持ちだ。 三日目、保健のテストは30分しか行わず、体育の延長線上……おまけみたいなテストだったので、点数はそこそこ取れているところだろう。問題は数学だった。オレは証明問題に苦戦したが、ナラはもっと苦戦していた。長い数式や長い文章問題を出題されると、たちまち解けなくなるのだ。30点あればいい方かな、とナラは微笑んでそう言った。 三日目の帰りにナラの家に寄り、マユミや他のお手伝い、執事に今日のテストのことを話した。 執事は無表情で少し相槌を打ったあと、すぐ部屋に帰って行った。他のお手伝いもそそくさと自分の持ち場へ戻り、マユミだけが悲しそうにうなだれていた。 総合的に見て、ナラのテストの出来は絶望的だった。普通の生徒なら30点や40点を取ろうが、ただの「頭の悪い子」として評価されるだけだ。しかしナラが30点や40点を取ると「目が見えないからこういう結果になったのだ。やはり普通の学校で生活していくのには無理がある」と判断され、たちまち障害者学級に逆戻りされるだろう。そうなるともうナラには会えなくなる。執事は常にナラのそばにいるが、障害者学級で世話をしてくれる人がいる以上、『四人の家事手伝い』は仕事の場を失う。ナラにとって一番信頼できるマユミを失うことは、ナラにとって大きな傷となるだろう。 ナラの将来はどうなってしまうのだろう。 もし、『向こう』に行ってしまってもまだマユミたちが残っていれば、それだけでも少しは明るい生活が送れるのかもしれない。しかしナラの親はめったに家に帰らず、ここ数年は顔も合わしていない、話も交わしていないそうだ。 それに短い間だったが、今の学校にもナラの友達はいた。ナラに気を遣ってか、ナラのことをしたってくれる友人ができたのだ。障害者学級にいたころの友達もたしかにいるが、今の学校の友達としゃべってるほうが何倍も楽しいと言っていた。障害者学級には、喋ることもままならない子がたくさんいたからだ。 そして……好きだと言ってくれたオレにも、会えなくなる。 ナラのいない学校で、オレは心を開くことができるだろうか。 もっとナラとしゃべっていたい、もっとナラと一緒にいたい。その気持ちばかりが先走ってしまっている。 もし『向こう』に行ってしまうのなら……それまでに、ナラに何かをしてあげたい。何かをやり残したい。 ナラはオレに、大事なものを教えてもらったと言っていたが、オレはナラに何かを与えた実感はない。 その答えもわからないが……ちゃんと実感のあるものとして、ナラの心に何かを残したい。 何かはわからないけど、何かを…… テストが返却された日、その日は朝からナラとは顔を合わせてい。 ナラは別の教室で個別にテストの結果を伝えられていたからだ。 下校のとき、ナラを呼んでテストの結果を聞こうと思ったが、どこを探してもナラの姿は見当たらなかった。 先生に聞くと、ナラはもう下校したと聞いた。 その日は、夏休みまであと一週間を迎えるところだった。 そしてそれ以来、ナラがこの学校に来ることは、もう二度となかった。 6 一度に多くの出来事が起こり、オレはまだ状況を整理できずにいた。 夏キャンプに行ったこと。 ナラに告白されたこと。 テストがあったこと。 そして……テストが返却された日の放課後、事件は起きた。 テストを行ってから二日後に、テストは返却された。 ナラの席は空席のまま……そのまま先生は何も言わずに、下校の合図をした。 他の生徒からは、いつも一緒にいるのにどうしたの? と聞かれた。 別の教室でテストの結果を聞いてるんじゃないかな。オレはなるべく平常心を保って答えた。 放課後、先生に話を聞くと、ナラはもう下校したらしい。 オレに何も言わずに帰ったということは、やはりそういうことなんだろうか……。 オレはいつもの帰り道を一人で帰ることにした。 そういえば、一人で下校するのは久しぶりのように思えた。ここ最近はずっとナラと一緒に帰っていたので、一人になるのが急に寂しくなってきた。 前までは一人のほうが良かったと感じていたのに……今ではナラと一緒にいるのが当たり前のように思えた。 そのナラは……何も言わずに消えてしまった。 もしかすると明日また学校に来るかもしれない。今日は何か別の用事があったのかもしれない。 でも何だろう、このモヤモヤ感は……胸にぽっかり穴が開いたような、けれどもその穴に何かひっかかっているような気がする。 そんな帰り道、遠くでパトカーのサイレンが聞こえた。複数のサイレン音だ。 その音が聞こえた方角は……ナラの家がある方向だった。 ──初めて──初めてナラからあの家の話を聞いたときと、同じような胸の痛みが走った。 あのときは何で胸が痛むのかわからなかったけど……今ならわかるような気がした。 この、罪悪感とも、高揚とも違う、胸の高鳴り。その正体は…… 『このまま放っておいてはいけない』という気持ちだった。 早足でナラの家の方へ向かうにつれ、サイレンの音がどんどん大きくなっていく。 だんだん人のざわつきも聞こえるようになってきた。 ナラの家が見えたころには、それが明らかにナラの家の周辺から聞こえたいたものだということがわかった。 ナラの家の周りに、複数の警察官とやじ馬と、黄色いテープで作ったバリケードがあった。それは完全にナラの家を包囲しているものだった。 警察官たちが、カメラを担いだ人たちを抑止している。おそらくあれは、マスコミだ。 オレはなんとか人ゴミの中をかいくぐって、警察官の一人に聞いた。 何があったんですか!? その警察官は、見下したような表情でオレに言った。 子供は危ないから、さっさと帰りなさい。 オレはその言葉に腹を立て、警察官の脇をすり抜けてバリケードを突破した。 後ろから何か叫ぶような声がしたが、オレは振り返らずに走った。 ナラの家、大きな門の前に着くと、警察官とは違う人が立っていた。黒い服、黒いヘルメット……手には拳銃が握られていた。 こんな所に子供が入るな! オレは振りきって中へ入ろうとしたが、服をつかまれて捕まった。先生に引っ張られたときよりも強い力だった。 は、放してくれよ!中に友達がいるんだ! 中にナラがいるのかはわからないが、それでもオレは大きな声で叫んだ。しかし黒ずくめはオレをまったく放そうとはしなかった。 ……その時、ふと、声を聞いた。 それは聞きなれた声で、いつもは電話越しで話すことがほとんどだった。 ──お前、何やってんだ? こんな所で。 その声の主と会うのは、これが二度目だった。 レイジ!! 身長は熊ほどあるかというぐらい高く、顔にはぶしょう髭が生えていた。どうみてもスポーツマンのような顔立ちで、とても警視とは思えない。スーツがひどく似合わない。 オレの悩みを電話で答えてくれる……母さんの古い友達の名を呼んで、黒ずくめの手が止まった。 ち、知人でありますか? レイジの顔を見るなり、急に黒ずくめの声のトーンが変わった。 あー……知人っつーか……いや、知人なことには変わりないか、なぁ? レイジはオレの顔を見ながら頭をかいていた。 オレは何と答えればいいかわからず、レイジの顔をきょとんと見た。 ま、いいや。こいつはオレが追い出しとくよ。お前は下がれ。 ……はっ! レイジがそう言うと、黒ずくめは門の横で「気を付け」の姿勢をした。 そしてオレを見る。 ……で、だ。なんでお前がここに── この家で何があったの!? レイジの声をさえぎってオレは叫んだ。 ──知り合いでもいんのか? 前にレイジに話した、目が見えない女子……ナラの家なんだ。 そう言うと、レイジの目はこれでもかというくらい大きく開いた。 本当か!? ウソついてどーする! うーむ…… レイジはしばらく家の方を見つめ、困った顔をしてオレに耳打ちした。 ……女が、身代金を要求して立てこもってる。その、ナラって子が、人質にされているんだ。 ──何だって? オレは一瞬、レイジの言ってることが理解できなかった。 小型だが、銃を持っておどしているんだ。確か犯人は、この家に雇われているホームヘルパーの……マユミって名前だったか、そんなやつだ。 マユミが!? 何で? 俺が知るかっての! とにかくお前は近づくな。あのヤジ馬どものとこには戻せないな……ここで待ってろ。 レイジはそう言って、ナラの家の方へ向かおうとした。中には数台のパトカーと、門にいるヤツと同じ格好をした黒ずくめがたくさんいた。 待って! レイジが止まって、振り返った。 マユミとナラは……どこにいるの? レイジはあきれた顔でオレに何か言おうとした……けど結局何も言わず、ナラの家のある一点を指差した。 あそこにいる。 オレは差された方を見た。そこは、ナラと一緒に勉強したり、他愛もない会話をしたりした、あの部屋だった。 特殊部隊を向かわせようとしてるんだが、扉には鍵が掛かっててな。近づくと子供を撃つって言ってる。長期戦になりそうだぜ。 レイジはそう言って、再び身を返し家の方へ向かった。 マユミのいる方を見る。マユミはナラの頭に拳銃を当て、何かを叫んでいる。ナラは抵抗しようとはしていない。多分、あれは寝かされているのだろう。 なんでこんな日に、しかもナラと一番仲が良かったあのマユミが、身代金目的で立てこもったのだろう。 ナラはやはり、帰ってしまうのだろうか。 オレの頭は、混乱しきっていた。一度に多くの出来事が起きすぎて、身体が対応できない。 時間にしてみればほんの数秒──けれどオレにとっては数時間にも思えた時間の中で、オレは立ちすくんだ。 そして走った。レイジのいるところまで。 黒ずくめがそれを見てオレを止めようとするが、今度は振りきった。 レイジのいる中庭までの距離が、ひどく遠く感じた。 部屋の中にいるマユミは、オレの存在に気づいただろうか。少しだけそんなことを考えながら、オレはレイジのいるパトカーへ行った。 女の人も何人かいて、レイジの周りにいる人はみなスーツ姿だった。それぞれ無線機を片手に、何かしゃべっている。その無線機を見て、オレはひらめいた。 ……うお! びっくりした、なんでここまで来てるんだよ。危ないから向こう行ってろ! オレはレイジの言葉を無視して、言った。 無線貸して! はあ? オレ、マユミともナラとも知り合いなんだ。学校でナラの面倒を見てやれるのは、オレだけなんだ!公衆電話を使って説得して、マユミの注意を引く。その隙にオレが合図するから、合図と同時に突撃してくれ! オレは自分でもなんてこと言ってるんだと思いながら、必死になってレイジに訴えた。 オレのことに何人かの大人が気づいて、オレをつまみだそうとする。 レイジはオレの顔をじっとにらんだまま、こう聞いた。 ……お前、あの女の子の『何』だ? オレもレイジの顔をにらみ返し、こう言った。 オレは……オレは、ナラの彼氏だ! レイジの部下と思われる警察官が運転する家庭用のワゴンの中で、オレはレイジからもらった無線機を片手に持っていた。 ──いいか、オレはこの辺の地理に詳しくないから、コイツに運転させて案内させる。公衆電話が見つかったら、会話内容がコイツにも聞こえるように電話しろ。探知機を設置する暇はないからな。んで、犯人は興奮してっから、とりあえずそれを静めてくれ。お前の判断でいい、行けると思ったら合図してくれ。 それが、レイジからもらった指示だった。 しかし、あいにくオレはその指示に従うつもりはなかった。 もちろん、レイジにも警視としての責任があるだろう。こんな子供一人に、すべてをまかせてくれるとは思ってない。プロの目で見たほうが、突入時期もわかるだろうし、オレにまかせるよりよほど安全だろう。 多分、レイジは……オレの勇気を買ってくれたんだと思う。 オレはそれに答えなきゃいけない。 けれど、実は公衆電話を使って説得するっていうのはウソなんだ。ごめん。 そもそもオレは、ナラの家の電話番号を知らないし、マユミの携帯電話の番号も知らない。 あの能力を使うときが来たのだ。 ナラと会って以来、使わないようにしていた──いや、使うことを忘れていたのかもしれない。 ナラを守るために、オレにしかできないこと……それはすぐに、この能力のことだと思いついた。今使わなければ、いつこの能力を活用できるだろう。 この、『ズーム』の能力を── 数分も経たないうちに、車はあらかじめ運転手に伝えておいた場所にたどり着いた。 オレが通っている中学校だった。 オレが車を降りると、運転手も一緒に降りてこようとする。一緒についてこられるとマズいので、なんとか車の中にいさせようとした。 あんたはここにいてくれ。 なぜだ?君は私に、君と一緒に着いてくるよう言われたのではないのか? でも、こんなところに車置いてたら、駐禁で罰金とられるんじゃない? ばかな、私は警官だぞ。 ──自分でも苦し紛れの言い訳だなと思った。そうだ、相手は警官だ。理由を説明すれば、取られるわけもない。 そ、それにさ、電話が学校にあるんだ。でも警察官のあんたが来たら、何か事件があったのかと騒ぎになるよ。 うーむ……しかし、君ひとりでなんとかできる問題ではない。 大丈夫だって、オレとレイジを信じろ! ……何かあったらその無線ですぐ呼びなさい。スイッチを押して喋れば、レイジさんだけでなく私にも通じますから。 そう言って運転手は車に戻った。オレはすぐに身を返すと、学校の屋上へと向かった。 まだ日は暮れていない夕方、学校に残っている生徒も何人かいた。もちろん先生もいる。オレは先生に見つからないように最上階まで駆け上がり、屋上へと続く扉を開けた。 開けた瞬間、顔を覆いたくなるぐらいにまぶしい日光がオレを照らした。ちょうど水平線の彼方で、今まさに太陽が沈もうとしている。 夕焼けに見とれている暇もなく、オレは屋上の端まで走った。上からナラの家を探し、それはすぐに見つかった。 ナラの家の周りには、やはり複数の警察官やヤジ馬がいた。さっきより数が増えている。あんな大豪邸で女の子が誘拐されてたてこまれたとなったら、明日の新聞紙の一面に大きく載るに違いない。 オレはすぐにナラの家に焦点を合わせ……一瞬、能力を使うのをためらった。いや、能力を使うのが怖かった。 自分でも忘れていた。ナラが学校へ来て以来、ズームをまったく使っていないことに。 ……本当に成功するのか? ちゃんと照準を合わせることはできるのか? 的確に指示することができるのか? オレはナラを……救うことができるのか? 時間にしてみればほんの数秒なのだが、その数秒の中でいろんな葛藤が自分の中にあった。 やめろ、失敗する。 お前は能力を使うことに恐怖を感じている。 お前はナラに何をしてやれた? どうせ失敗する。大人たちに全部まかせろ。 叫びたくなる衝動を抑え、オレは静かに目を閉じた。 心を落ち着かせる。 キャンプファイアーでナラが言った言葉を思い出す。 ──結局、どんなことを言っても、私は目が見えないことに変わりはないの。綺麗事とか、想像上の話をしても、現実は何も変わらないの── ──でも、見えないことで大事な存在が見えてくるものだってある── ──いつだって、大事な存在は、まぶたの裏にあるの── ──それは、『想像力』── オレは必ず成功する。そしてナラとまた、笑って手をつないで登校するんだ。そんな未来のビジョンを想像する……そしてそれはいつか、形になることを信じて。 オレはまぶたを開け、ナラの家だけを見た。 窓から、ナラの部屋が見えた。 白い壁にはピンクの水玉模様があり、床は高級そうなカーペットが敷かれていた。テレビは無かったが、本棚があった。沢山本が入っている。 ベッドや枕も高級そうで、それは今まで見たことないものばかりだった。少し前までは、子供用の勉強机だけがオレの知っている唯一のものだった。この部屋に子供用の勉強机はひどく似合わなかったことを思い出す。 部屋の隅、ベッドのすぐ横にも小さな毛布が置いてあった。それは犬用のベッドらしく、ナラはいつもアーノルドと一緒に寝ていると言っていた。 この部屋の構造ぐらいは全部覚えてるから、と自慢げに話していたことを思い出す。 その部屋の窓際に、ナラとマユミはいた。ナラはマユミの腕の中で、眠るようにうなだれていた。抵抗する気力がないのか、本当に眠ってしまっているのかは、ここからではわからない。マユミはナラの頭に拳銃を突きつけていた。 マユミがなんでこんなことをしたのかも、今のオレにはわからない。この事件が終わったら、聞きたいことが山ほどある。 レイジにいつでも連絡できるように無線機を手に持つ。 じっとマユミを見つめる。マユミは当然、こちらの視線には気づいていないだろう。車で数分とはいえ、学校からナラの家まではそれなりに距離がある。マユミがオレを見つけることは、不可能に近い。 ここからは時間との戦いだった。必ずマユミが折れる時が来る。日が暮れ夜になろうとも、目がどんなに疲れようとも、オレはこの能力を使い続ける。マユミが窓際から目を外した、一瞬のチャンス。そのチャンスをオレは片時も逃すことなく、ずっと待ち続けた。 そこには、永遠とも思える時間があった。 7 その時は来た。 マユミは窓際から目を離し、ナラの方を見ている。その表情は悲しそうだった。マユミは何かを叫んでいるが、声まではオレに届かない。 レイジたちはそれに気づいていないのか、拡声器を使ってマユミに向かって何か言っている。 オレは急いで、レイジに通じているであろう無線機に向かって叫んだ。 今は窓の方を向いていない、突撃のチャンスだ! 無線機からは少しノイズが聞こえたあと、了解、というレイジの声が聞こえた。 まだマユミはナラの方を向いている。レイジが手で合図をしている。特殊部隊と言われた黒ずくめの人たちが、ドアに向かって一斉に走り出したのが見えた。 扉には鍵がかかっているらしいが、すぐに開いた。マユミはそれに気づいていない。 そしてマユミがまた、窓の方を向いた。一瞬、マユミの顔が呆然となっているのが見えた。そしてすぐマユミは、窓とは逆のほうを向いて何か叫んでいる。 と同時に、ナラの部屋に入ってきた黒ずくめたちが、マユミを取り押さえる。マユミはじたばたしているが、黒ずくめたちの手からは逃れられなかったようだ。 黒ずくめの一人が、ナラを抱いている。その姿を確認したあと、オレは走って屋上を降りた。 学校の門を出ると、運転手がオレを待っていた。 どんな説得をしたか知らないが、君のおかげで事件は解決したよ。ずいぶん時間がかかったみたいだけど、ありがとう。 説得、と聞いてオレはギクリとしたが、あいまいに返事をして車に乗り込んだ。 空には満月が輝いていた。 ナラの家の周りにいたヤジ馬がかなり減っていたので、車も入りやすかった。 庭に着くと、すぐにレイジの元へ向かった。 ど、どうだった? そう聞くと、レイジは満面の笑みを浮かべ、 よくやったなぁお前! たいした度胸だ! 犯人は取り押さえたぞ。 ほ、本当か?どこにいるんだ? 今から連行するところだよ。 ほれ、とレイジは、マユミが今乗ろうとしているパトカーを指差した。 オレはすぐさまそのパトカーに駆け寄った。 マユミの顔は白く、衰退しきっていた。これが本当に、ついこの間まで一緒に勉強したりおしゃべりしてたマユミなのかと、自分を疑うほどだった。いつもの明るいマユミの姿は、どこにもなかった。 両手には布が巻かれていた。おそらくその布は、手錠を隠すためのものだろう。 マユミが警察官にうながされてパトカーに乗るとき、マユミと目が合った。 センリくん……どうしてここに? 信じられない、と言った顔をしていた。しかしオレはマユミの言葉を無視した。 なんでこんなことをしたんだ! オレの声には、怒りと悲しみがこもっていた。 ……仕方なかったのよ。 そのマユミの声には──あとから思えばあれは、嘆きと諦めがこもっていたような気がした。 何が仕方ないんだよ!ナラが何したって言うんだ! あの子は何もしていないわ。あの子は、ね…… それ以上オレが何を言ってもマユミは答えず、パトカーは走り去って行った。 その時マユミが見せた表情を、オレは忘れもしなかった。けれどその時は、マユミが見せた表情の意味がわからなかった。 パトカーを見送りながら立ちつくしているオレの肩を、レイジがぽんと叩いた。 理由が知りたきゃしばらく待つことだな。事情聴取はこれからだ。 ポケットからタバコを一本取り出し、レイジは火をつけた。夏の夜風が、タバコの煙をかすめる。 あ、そうだ! ナラは? ナラはどこにいるの!? 周りを見てもナラの姿がない。 人質の救出が最優先だったからな、あの子は先に病院へ送ったよ。 病院? なんで。 ケガをしてないか、犯人に何かされてないかを見るためだ。明日になったら会える。 そっか…… オレのこの感情をどこにぶつけていいかわからないまま、オレは途方に暮れた。 いつの間にか、マスコミやヤジ馬がまったくいなくなっていることに気づく。黒ずくめの影も見当たらない。 俺は帰って調書をまとめなきゃならん。お前も今日は帰れ。話は今度、ゆっくり聞いてやるよ。 タバコを吸い終わると、レイジは自分の車に乗っていった。他の警察官には、撤収し始めている者もいれば、家の中で事後処理をしたりしている。今まではまったく気付かなかったが、他の家事手伝いもいた。みな、警察官と何やら口論しているようだ。 そうだ、なんなら家まで送っていってやろうか? ……いや、いい。 そうか。じゃあな。 レイジの乗っているパトカーが去って行った。ナラの家の前で、オレは立ちすくむ。 検察官らしき人がメモ帳を片手にうろうろしている。その人と目が合うと、操作の邪魔だから帰りなさい、と言われた。 他の家事手伝いに話を聞きたかったが、どうもオレの話を聞いてくれそうな状況ではなかった。 ナラからも話を聞くことができず、オレは仕方なく家に帰ることにした。 ほんの数週間前のことのように思う。 ナラと出会ってから、もう四か月以上も経つのだと気づいたのは、夏休みの前日、終業式のときだった。 マユミが犯した誘拐事件から、一週間と少しの話だ。 そしてこの四か月間が、オレの体験したひと夏の思い出だった。 あの日以来、ナラからも、レイジからも、何の連絡もない。 母さんはニュースでこの事件のことを知り、すぐにレイジに電話したそうだ。 けれど、詳しい話は聞けなかったという。 オレは学校の先生にも話を聞いた。先生は、実家に帰った、とだけ言った。 ナラの家に行くと、あの大きな館のような家には、誰も住んでいなかった。 執事も、家事手伝いたちも、アーノルドもいなかった。いつも庭に停めていた、高級そうな黒い車もなかった。 表札は無く、立ち入り禁止区域となっていた。事件から一週間と少しが経った今でも、警察官はナラの家を出入りしていた。 学校中を探したが、ナラの姿はどこにもなかった。とうとう終業式にも顔を出さなかった。クラスのみんなは、ナラが急に消えたことにまったく違和感を感じていなかった。当たり前の日常が繰り返され、当たり前の終業式が、終わった。 その日の夜、家に一通の手紙が届いていた。送り主の名前は、ナラ、と書かれていた。 急いでオレは手紙を開け、中身を読んだ。 センリくんへ。お久しぶりです。そっちは暑いですか?もうすっかり夏ですね。いきなりの手紙に、びっくりしましたか?この手紙は、前の家でお世話をしてくれた執事さんが書いてくれたんです。 まず、謝らなければいけないことがあります。何も言わずに、突然出て行ってしまって、ごめんなさい。テストを返してもらった日、私は先生に、実家に戻るようにしろと言われました。私はいやだと言いましたが、先生は聞いてくれませんでした。テストの点が、悪かったそうです。あんなに勉強見てもらったのに、ごめんなさい。やっぱり私は、普通の学校にはいれないんだなと思いました。 そのあと、マユミが学校までむかえに来てくれたんです。先生に言われたことを話すと、かわいそう、と言ってくれました。家に帰っておやつを食べてから、私は寝てしまいました。気がつくと、病院にいたんです。お医者さんが、どこか痛むところはないかと聞きました。そこからは、あまり記憶にないのですが、お医者さんは私が眠っていたころ何があったのか、話してくれました。マユミが用意してくれたジュースの中に、睡眠薬が入っていたそうです。私は誘拐されたのだという話を聞きました。たしか、なんでそんなことをしたのと聞いたあと、病室で警察官の人と二人きりになったのは覚えています。センリくんの友達だと、その人は言っていました。マユミから伝言がある、と言って、私は誘拐された理由を聞きました。 私は何も悪いことをしていないのに、なんで私は目の見えない子になってしまったのか。なんでこんなに不自由な思いをしなければいけないのか。そう思うとかわいそうで仕方なかった。お父さんにもお母さんにも会えないで、また元の学校に戻されることがいやだった。事件になれば、誰かこの子を普通の子として見てくれる人がいるかもしれないと思った。 ……みたいなことを言っていたと思います。あまりはっきりと覚えてないので、執事さんがうまく書いてくれていると思います。 私は、こんな目になって生まれてしまったことを、後悔しません。センリくんと離れ離れになるのが、さみしかったんです。マユミは私のことをいつも気遣ってくれていて、好きなことをいっぱいしてもらいました。でも、マユミは勘違いしていたんだと思います。私は、こんな目になっても不自由だとは思いませんでした。それに、この目のおかげで、センリくんと出会えたんだから、私は幸せです。この目に感謝しています。マユミとはもうずっと会えないかもしれないけれど、マユミにも感謝しています。執事さんにも、他のお手伝いさんたちにも、みんなみんな感謝しています。センリくんにも、感謝しています。センリくんと出会えて、本当に良かったと思っています。ありがとう。 そんな私に、ひとつ嬉しいことがありました。テレビで私のことを見ていてくれたお父さんとお母さんが、仕事先から帰ってきてくれました。またもう少ししたらお仕事へ行ってしまうらしいですが、それでもいっぱいお話できて、嬉しかったです。これは、マユミが私に残してくれたプレゼントだと思って、いっぱい、いっぱい甘えたいと思います。 私は、センリくんのことが大好きです。センリくんのことは一生忘れないと思います。おとなになったら、センリくんに会いに行きたいです。 キャンプファイアーの日、私がセンリ君に話したことを覚えていますか? 私はセンリくんから、希望というかけがえのないものをもらいました。目が見えなくても、人を好きになれる気持ちを教えてくれました。センリくんに優しくされて、私は信じる気持ちを知りました。 目が見えないからって、おくびょうになったり、怖がったりは、もうしません。センリくんが私に大事なことを教えてくれたから。私はしばらく、こっちの学校でがんばって勉強します。字を書くことはできないけれど、その代わりに聞くこと話すことをもっとがんばりたいと思います。 でも、たまにはこうやって手紙を出して、甘えたくなるかもしれません。執事さんに書いてもらうことは恥ずかしいけど、他に頼める人がいなくって。お手伝いさんたちは、忙しそうだから。 また、手紙送りますね。 ナラより 手紙を読んでいる途中、オレは泣きそうになった。誘拐された理由には驚いたが、何より、ナラが幸せだと言ってくれたことが嬉しかった。 夢中になって、その夜は何度も何度も手紙を読みなおした。 食事を済ませたあと、母さんとレイジにこのことを伝えた。母さんは、良かったねと言ってくれた。相変わらずレイジは事件のことをあまり話してくれず、無愛想だった。 そのあと、オレは自分の部屋に戻って、もう一度手紙を読みなおした。 そして、決意した。 オレは将来、ナラの『目』になってやろう。ナラの力になってあげたい。ナラが夢見たこの世界を、オレの目を通して教えてあげたい。 それから、ナラに告白しよう。好きだと、伝えよう。ナラを、幸せにしてあげよう。 ナラがそうしたように、オレもこの目のことを大事に思う。目に見えるものはいつでもリアルで、ツラいことも悲しいことも容赦なく突きつけてくるけど。それでもオレは、それらを全部受け入れてみようと思った。 ああ、そうさ。 この瞳に映るものに、見えないものなんてないのだから。 窓を開けると、空には三日月が浮かんでいた。キャンプファイヤーでのことを思い出して、オレは少しだけ泣いた。 窓から吹き抜ける風は、七月とはいえまだ冷たく、春の名残をわずかに感じさせた。 これからまた暑くなっていくのだろう。 オレはナラへの返事を書き終え、電気を消した。 月明かりに照らされ、いつかの将来を夢見ながら眠りに落ちた。 |